折々のことば。2025年2月6日の以倉紘平の言葉。
ひとは 人生のはじまりの早い時期に/自分の人生の大切なことはすべて告げられているのではなかろうか 以倉紘平
鷲田清一の解説。
小学校の国語教科書にあった、一人旅立つ少年が見送りにきた父に、車窓から身を乗り出して手を振る場面。
詩人が35歳の娘を亡くした時、先に行く彼女がふり返ってしきりに叫ぶ姿がこれに重なった。
人生において、人はそれぞれに抱え込む一つの主題を変奏するのか。
詩「お父さん 銀河鉄道に乗ってね」(詩集『遠い蛍』所収)から。
以倉紘平という詩人の名を知ったのは、確かH氏賞を取った『地球の水辺』だった、と思う。
そこに収められていた「最後の授業」で、黒板が一つの宇宙、という発想に共感した。
1992年のこと。
それから1年後には、彼の詩をもうひとつ取り上げて、紹介した。
それ以降、彼の動向は知らないでいたけど、その後、1998年近畿大学文芸学部教授になったりしてた、のね。
その後、2019年『遠い蛍』で第57回歴程賞受賞、とウィキペディアには出ていた。
その詩集の前半は35歳で病死した娘さんとのあれこれで、読んでいて辛いという感想も散見した。
…そうか。35歳の娘さんを。亡くされた、のね。
辛い、ね。
何かひとつのシーンが。
重なって、繰り返し、自分の目の前で展開される、というのは。
その既視感(デジャブー)は。なんだろう?
何か妙に。「訴えてくる」のね。
確かに。そういうものがある、としたら。それは自分のテーマなんだ、と思わざるを得ない、かも。
私の10代のテーマは。「取り残される」だった。
黄昏時の、次第に暗くなっていく中で。ふと気がつくと、とっぽり暗くなった中でぼつんと居る自分、だったり。
水平線を眺めていて。どうしても、そこに辿り着けないことに無限の悲しみを感じたり。
14の歳から、書くことを始めた私は。
自分の中から溢れ出る言葉を、毎日大学ノート2、3ページから4、5ページ、書いた。
それを二十歳過ぎまで続けて。ノートは20冊を超えた。
23の時、言葉が。私の言葉たちが「トグロを巻いていて(=閉じていて)醜い」と思った。
それで、書くことをやめて、「外に出よう」と思った。
そう、「就職する」ことを私は選択した。
「外の世界」は、怒涛のようだった。
1対1の人間関係でさえ覚束ない、というのに。
教壇に立つのは。1対多の関係で。本当に。毎日が「修行」だった。
毎日毎日、3年間、へとへとだった。
最初の3年間で得たことは。「私は私のままで、人前に立つしかない」ということだった。
繕おうとしても、無理だということを理解した。
人によって態度を変えることは私には無理だった。生徒であっても同僚であっても、管理職であっても。
もうそれでいい、と思った。それでやるしかない。
そんな必死な日々だったから。
その頃の教え子が、38年も経って、35年も経って、私を訪ねてきてくれる、というのは。
本当に驚きだった。私、ちゃんと「先生」してた、かな? が常に思うことだったから。
まあ、それで。
人生の終盤でいただいた、神さまからの「贈り物」のように、私には思える。
毎日が必死で、常に余裕がなくて、いっぱいいっぱいの私だったのに。本当に有難い、と思う。
画像は、昨日に引き続き2016年4月の馬見丘陵公園の花。
ホント、寒いので。春が待ち遠しい。
<追記>
「折々のことば」に以倉紘平の言葉が取り上げたれたせいか、一昨日から、私の「以倉紘平」についてのコラムへのアクセス数が伸びています。
うーん。2日でユニークユーザー数248。
まあ、谷川俊太郎が亡くなったニュースが流れた時も。谷川俊太郎についてのコラムへのアクセス数2万だったけど。
詩についてのコラムなんて、集客には何も影響ない、ことでしょうけれど。何にしても。「人生無駄はない」ですね。。