「春の問題」 辻 征夫
また春になってしまった
これが何回目の春であるのか
ぼくにはわからない
人類出現前の春もまた
春だったのだろうか
原始時代には ひとは
これが春だなんて知らずに
(ただ要するにいまなのだと思って)
そこらにやたらに咲く春の花を
ぼんやり 原始的な眼つきで
眺めていたりしたのだろうか
微風にひらひら舞い落ちるちいさな花
あるいはドサッと頭上に落下する巨大な花
ああこの花々が主食だったらくらしはどんなにらくだろう
どだいおれに恐竜なんかが
殺せるわけがないじゃないか ちきしょう
などと原始語でつぶやき
石斧(せきふ)や 棍棒(こんぼう)などにちらと眼をやり
膝(ひざ)をかかえてかんがえこむ
そんな男もいただろうか
でもしかたがないやがんばらなくちゃと
かれがまた洞窟の外の花々に眼をもどすと……
おどろくべし!
そのちょっとした瞬間に
日はすでにどっぷりと暮れ
鼻先まで ぶあつい闇と
亡霊のマンモスなどが
鬼気(きき)迫るように
迫っていたのだ
髯(ひげ)や鬚(ひげ)の
原始時代の
原始人よ
不安や
いろんな種類の
おっかなさに
よくぞ耐えてこんにちまで
生きてきたなと誉(ほ)めてやりたいが
きみは
すなわちぼくで
ぼくはきみなので
自画自賛はつつしみたい
(『隅田川まで』思潮社 1977年刊)
なんだか、すっとぼけていて可笑しい詩です。劣等生の原始人になってあれこれ考えるという、詩人の想像力は壮大ですね。
ですが最後シュッと、自分を原始人に見立てていたという「現実」に立ち戻るところがなんとも可笑しい。
新年度が始まり、新しいあれこれに気持ちがついていけなくて、ちょっと引きこもり気味の自分をふと「原始時代」においてみるのですが、やっぱりそこでも、「現代」と同じような「劣等生」の自分しか見出せなくて…。
それはそうですね。
自分から出発する想像力は、結局のところ、自分の「枠」からはみ出てくれなくて、自分に立ち返るしかない。
でも、「髯(ひげ)や鬚(ひげ)の/原始時代の/原始人よ/不安や/いろんな種類の/おっかなさに/よくぞ耐えてこんにちまで/生きてきたなと誉(ほ)めてやりたいが」という賞賛は、実は現代の自分に向かっていて、「それにしても、よくもまあ、生き延びてきたよ。」と言っているのですね。
でも、こんな風な「自画自賛」は必要かもしれません。
「よくやったね」「よく頑張ってるよ」。
誰が言ってくれなくても自分が自分にそう言って認めてあげて、慰めて、そうして気持ちを取り直して、また「毎日」を始めるのですね。
「うまくいくとき、いかないとき、ありますが、私は最善を尽くした、あるいは尽くしている。そんな自分にありがとう と声を掛けてあげましょう。」
これはボイスアートでのまやはるこ先生の「お辞儀呼吸法」での、声掛けです。…そうそう、それに通じるものがありますね。
そう、うまくいくとき、いかないとき、ある。でも、自分は最善を尽くした、尽くしている、と思うことは、また、自分のできる「最善」を積み重ねていこうと思うことに繋げていける。
不完全な自分を認めつつ、そんな自分を受け入れる気持ちになれる。
さて、では「今日」を始めますか。
画像は、カウンセリングルームのご近所のケーキ屋さんが、2周年を迎えたというのでお祝いに送ったプリザーブドフラワー。
お茶会に出すクッキーのことで相談に乗ってもらいました。
カウンセリングルーム 沙羅Sara
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