一昨日、母が「爽健美茶」2リットルボトルを買いに行きたいから、車を出してくれと言って来ました。
自転車に乗って買いに行くと、ボトルは重いからフラフラするのだと。
珍しく夕方に家にいた私は、「じゃ、行こうか?」と言うと、お腹が空いて動けないから、夕食後と言います。
ご飯食べてから、動くの嫌だなあと思いつつ、「そう?」と言って食事を取りました。
で、食後に近くの「コスモス」というディスカウントのドラッグストアに行きました。
昨年夏も、「爽健美茶」を10本買いしたなあと思い出していますと、なんと、6本までは、…確か128円で、7本目から少し値段が上がる設定。
上がるって言っても10円か20円で、不思議な値段設定するなあと思いつつ、まあ、いいか、と。
レジでお金を支払う段になって、レジのお兄さんが、7本目から値段が変わることを告げたら、母は「ちょっと待って」と言って、なんと、7本目からを返品し始めました。…え?
「いいじゃない? また車出して来なきゃいけないんだから。」
「明日にでも、また、自転車で来る!」
呆れました。…そもそもは、自転車でボトルを買って帰ると、フラフラするから車を出してくれと言ったのではないの?
帰りの車の中で「そんな、10円20円はいいんじゃないの?」と言うと、「そんな! みすみす高いのは嫌やん。明日にでも、また自転車で来ればいいんやから。」
だんだん腹が立って来ました。「お母さんの時間は無限にあるんだね!」
なんで、物事の優先順位をつけられないんだろうと思うと、腹立たしいやら情けないやらで。
つい、嫌味を言ってしまった。ごめん。
…そうやって、「やり繰り」して生きて来たんだね。でも、もういいんじゃないの?
あと、どれくらい生きられると思っているの?
もっと、違うことに時間を使う方がいいと思うんだけど。
でも…何も怒らなくても、穏やかにそう言えばよかったね。
…私は、何に腹を立てたんだろう?
今までの価値観から抜け出られない姿?
…得意そうに「そうやって生きて来た」を披露する姿、かもしれない。
別に「そうやって生きて来た」ことを続けてもらってもいいんだけど、それに付き合わされる私の身にもなって! というところかもしれない。
私は、勤めている時は時間に追われて、10円20円の安さを求めて買い物はして来なかった。
10円20円の安さを検討する余裕がなくて、とりあえず手早く食事を作り、食べさせること優先だった。
あ、今、私「10円20円の安さを検討する余裕」って打った…。
主婦だった母は、それこそが「仕事」だったのかもしれない。
仕事をしてきた私は「稼いでお金を持ち帰ること」が仕事で、それに追われていたから「10円20円の安さを検討」するのは、「余裕」がないとできなかったんだ…。
そして今も、新しい仕事を創り出そうとしている最中で、それに追われてて、やっぱり「10円20円の安さを検討」するのに気持ちが向いていなかったんだ…!
考えの「出発点」が違ってたね、お母さん…。
お母さんの「仕事」はそれだったんだ…。
それを否定してごめん。
でも、私はやっぱり、それが「仕事」の立ち位置に立てないし、お母さんもそろそろ「残り時間」を考えた方がいいと思うよ。
私が怒ってしまったのは、母の価値観を押し付けられているように感じたからだろうか…。
…そうかもしれない。
私なら、そこで10円20円違ってきても、買ってしまう。
そして、その「用事」は済ませてしまう。
ああ!「私の時間も無限にないんだよ」って言いたかったんだ、私。
だったら、そう言えばよかったね。
母との暮らしは厄介だけど、いろいろ考えさせられます。
画像は本町のイタリアンのお店。人が忙しく立ち働いています。