前回は、アニマル=クロッシングというペア・ワークが私の中でどのように進行していったか、についてレポートしたところで終わりました。
そのペア・ワークを終えたところで、次の「デモ・セッション」に入る前にフォーカシングについての説明がありました。
フォーカシングでは「凍りついた全体性」という言い方があり、それは「構造拘束」を意味する、と。
(「構造拘束」という言葉自体が馴染みのないものだったので、調べてみたら、ジェンドリンが1961年に、「2つに分類される体験様式」の1つである、とし、それぞれが精神健康に異なる影響を及ぼす、としたもの。
「ネガティブな体験内容が反復し、暗黙の機能が停止している様式」と定義される。ちなみにもう一つは「過程進行中の体験様式」)
ゲシュタルト療法で近い概念は「凍りついた炎」。
以下、ゲシュタルト療法とフォーカシングの違いを際立たせるような話が続きます。
それは、ゲシュタルトとフォーカシングの違いは何なんだろう? と思う私にとって、とても刺激的なことでした。
フォーカシングにおいて、聴く側は追体験する。(池見さんは「共感」という言葉に違和感をお持ちで、「追体験」という語を用いる、と言われました。)
それは、言い換えると「受容的で共感的で、自己一致している状態」。
そして、「再帰性」が起こる。
それは、言葉にした途端、違和感を感じて「そうではないことがわかる」こと。
たとえば、「私はキリンです」といった途端に、いや、そうじゃない、とわかって、別の「何か」を探り始める…ことの連続で、アニ=クロは進んでいったのではないか、と。
「リフレクション」(=相手の言った言葉をそのまま伝え直すこと)は、「傾聴」して「受容」していることを意味するのではなくて、「再帰性」を確認するためにあるのだ、と。
つまりは、「あなたの言ったことを私は聴いていますよ」という意味ではなく、「あなたは◯◯と言いましたが、その言葉でしっくりきますか?」という確認しているのだということ。
…これは、衝撃的でした。そうなのか、と。そうか、「おうむ返し」じゃダメなんだ、と。
この確認過程が、「一緒にあなたのモヤモヤ(=言葉にしにくい、フェルトセンス)の正体を探っていきましょう」になるのか、と。
「何かワザを仕掛けていくのではなくて、その人の中にフォーカシングが起こるように、一緒に考えていく」のだと言われました。その人の中に答えはある、その人の感じる中にヒントがある、という立場はゲシュタルトと変わらない、と。
自分の問題にならないと解決しないので、解決してあげるのではなく、一緒に考えるのだ、と。
だから、できるだけ、まだ言葉にならないところを探るのだ、と。
そしてデモ・セッションに入りました。
セッション後に、3つのことを話されました。
1つは、「掛け合わせて考える」ということ。
セッションの中で、「掛け合わされた」ものは、池見さんと、(セッションを受けた)フォーカサー。
途中、池見さんから「蹴散らしたいんだけど、全然そんなことを考えてもないように座っているんじゃない?」という言葉掛けがあったのだけど、これは、外れてもいい、掛け合わせたらどうなる? という気持ちが池見さんにあったそうです。
一見、「ワザを仕掛ける」風にも見えますが、セッションをしていて、池見さんに自然に湧き起こってきたことで、それに対して素直に「自己一致」させて出てきた言葉なんだろう、と受け取りました。
そしてそれはアニ=クロでも同じで、あのワークは何をしているのかというと、動物と自分を掛け合わせて考えているのだ、と。
…それは、自分の状態を捉えようとする「過程」(=プロセス)なのですね。
もう1つは、「推進された“だった”(Carried foward “was”)」
体験過程で、過去がクリエイトされる(創り出される)ということ。
今の気づきが過去を変えるということ。
ああ、そうだったんだ…と、過去の持つ意味が変わるのですね。
もう1つは、「体験的キョリ」。
近すぎても遠すぎてもダメで、近すぎると感情が先立つし、遠すぎると何も感じない。
だから、セッションでは遠すぎると近づけるようにするし、近すぎると遠ざける。
「今のイライラ」にこだわるのではなく、その先にあるものを見る。
つまりは、インプロセス(=進行中)であることが大事で、セッションはプロセスが止まっているか動いているかを見る、のだと。
インプロセスは仮設の連続で、仮説は常に動く、と。
シリーズ5回で終わる予定が…終わりそうにない不安を抱えながら、ひとまず今日はここまで。
(初日のまとめが、まだ終わっていません…)
画像は富良野の富田ファームで見かけたハンギングバスケット。
あれかこれか、ちょうどゲシュタルトとフォーカシングを釣り比べているようで、選びました。