2日目の、今回のワークショップとしては2回目のデモ・セッションがあり、シェアの時間の後、「フェルトセンスと感情の見分け方」の話がありました。
「怒り」は「怒り」のまま変化せず、「怒り」などの明確な言葉になっている。つまり、「感情」は単一焦点的なのだ、と。
それに対して、「フェルトセンス」は変わっていく。「怒り」と表現されていたものが「火山」になったり、「死火山ではなく休火山だった…活動するとは全然思っていなかったのに…」と表現されたり。
…今、打っていて、「フェルトセンス」は表現しにくいから、譬えになったりもするんだと気づきました。
一言で言い表せないような微細な感覚を、なんとか既存の言葉で表現しようとするから、譬えで描写するしかないことも多いのですね。
そのものとのキョリがある程度取れていないと、フェルトセンスにはならない、とまとめられました。
先ほどの「死火山ではなく…」はデモ・セッションでのフォーカサーの言葉なのですが、池見さんは、シェアの時に「(それを聞いて)脳細胞が興奮した…おお、まさしく『推進された“だった”』だ!と…」と言われていました。
体験過程で、「今の気づき」が「休火山だった」んだ…というように「過去を変えた」のですね。
30分ずつ各自でフォーカシングをするペア・ワークの後、「感情というのは、フォーカシングではどういう位置付けにあるのか?」という質問が出されました。
暫く考えた後、池見さんは「生きるプロセスの取り残された一部」と答えられました。
たとえば「怒り」は、本当は◯◯さんに理解してほしいのに、そうではない時に湧き上がってくる感情だったりして、それはその人ともっと豊かな関係を築く契機となったりする、と。
「有機体が語る語」という比喩もある、と。
あるいは、『セラピープロセスの小さな一歩』というジェンドリンの著作には「感情は相互作用を狭窄(きょうさく=せばめる)する」とある、とも。
池見さんから、たくさんのものが引き出せた、「いい質問」だったなあと思いました。
さて。残り2時間、となった時点で、デモ・セッションはあと一人、となって。
「セッションを受けたい人」に手を挙げたのは5、6人。公平にじゃんけんして、最後、二人となりました。
ああ!じゃんけんに勝てるかな? と思ったのですが、相手の方が私に譲ってくれました。(後で聞いたら、「気迫負け」したとのこと。…スミマセン…、私、必死の形相だったのかしら…)
「観我フォーカシング」をしましょう、と言われました。
これはある朝、池見さんが瞑想されている時に、ふと思いつかれたものだそうで。
自分のいろんなものを感じている部分に、感謝したり慈悲を送ったりするもの、だそうです。
私はまず、母が浮かびました。それから、その母に対している自分。それから、子ども。それから杏樹(アンジー)。
母に対している自分が「どんな様子をしているか」と言われて、…瞬時に、口をへの字にして、右足首を内側に折り曲げて、着物を着せられて突っ立っている3、4歳の女の子が出てきました。
ああ!と私の口から声が上がりました。
「これは私のインナーチャイルド!…やっぱり出てきたね…」
馴染みを紹介するように池見さんに描写して、…そうそう、母と対していると私のインナーチャイルドが刺激されるんだわ、と自分で確認していました。
池見さんは、フォーカシングでは用いない「ザブトンを置く」ことを、私には勧められたので、(ザブトンを置くということは、そこに、該当する人を置くことなので)イメージし易かった、と思います。
(後で、なぜザブトンを用いたかの質問には、ゲシュタルトをやってる人はザブトンは使い慣れているだろうから、ということでした。)
母や子どもや、それらとのキョリ感も、私がザブトン置く位置で、池見さん自身視覚的に捕らえられた、と思います。
母とのあれこれ、私の中に生まれる葛藤…そんなことをつらつら話しました。
すると…池見さんは、「では、それに『慈悲』を送りましょう」と声を掛けられました。
「私が健やかで幸せでありますように。
私が苦しみから解放されますように…。」
「慈悲の言葉」はこういう言葉なのですが、実はこの言葉は、私は馴染みがありました。
いつだったか…10年ぐらい前に、アルボムッレ・スマナサーラというスリランカ仏教界長老の著書『自分を変える気づきの瞑想法』の中で出会った言葉でした。でもこれは「グィパッサナー瞑想法」の2、3千年前からの「慈しみの言葉」なのですね。
その言葉を何回か繰り返しているうちに、私はじんわり涙が出てきました。
が、なんだかフォーカシングはワアワア泣いてはいけない気がして、静かに留めていました。
そして、母へのざわざわ感は、次第に収まっていきました。
私の中にある、様々な感情。
それら全てを引っくるめて、「健やかで幸せでありますように」「苦しみから解放されますように」。
これは、「祈り」の言葉ですね。
万事手を尽くして、それでもどうにもならない時には、祈るしかない、と思う時があります。
祈りは、「困った時の神頼み」というような安易なものではなく、切実な願い、である気がします。
「慈悲の言葉」を繰り返しながら、「…そうよね…。出来るだけのことはしているよねえ…頑張ってやってるよねえ…私。それでも上手くいかないのなら、それはもう神さまにでも仏さまにでも、お願いするほか手がないよねえ…。」なんて、自分を認めつつ、あとは委ねる気持ちになっていました。
…これが心を穏やかに、心に平安をもたらすのでしょうか…?
心穏やかになった状態で、私の「観我フォーカシング」は終わりました。
時折、池見さんの方を見ると、目を閉じていらっしゃること2回ほど。
でも、セッションに参加していた人からすると、ほとんど目を閉じていらっしゃることがなかったそうです。
…とすると、稀な瞬間にコミットしたのでしょうか?
池見さんは穏やかで…私が自由にあれこれワークするのを一緒にその場にいてくれた、ような感じ。
「慈悲」を送る声掛けも、絶妙なタイミングだった…気がする。
母に対する感情、それに反応する私自身に対する苛立たしさ、に入る前の、クールダウンさせるかのようなタイミングで。
「寄り添う」ってこういう風なのをいうのですね。
微細な私の心の動きを感じ取って、必要なものを必要なタイミングで差し出す。
それでいて、自分に無理がない状態でいること。
確かに。毎朝の瞑想は必要だわ。
ワークショップがその関係で午後からになっても、仕方のないことだったんだ…。
あっという間の2日間でした。ですが、とても濃密な時間でした。
1年半前の私の「未完了の問題(unfinished work)は、完了しました。
画像は、最近「先生、結婚したよ〜」と幸せそうな写真を送ってきてくれた教え子に送った、お祝いのプリザーブドフラワー。