10月になりました。
朝夕が随分涼しくなりましたね。
特に朝は、何か上に羽織らないと肌寒いぐらいです。
…というのは、杏樹(アンジー)の朝の散歩で、6時半頃、ご近所を歩いているので。
今日は、川崎洋の「鉛の塀」という詩を取り上げようと思います。
「読書への誘い」の第56号で紹介したものです。
「鉛の塀」 川崎洋
言葉は
言葉に生まれてこなければよかった
と
言葉で思っている
そそり立つ鉛の塀に生まれたかった
と思っている
そして
そのあとで
言葉でない溜息を一つする
(『川崎洋詩集』国文社・1968年刊)
言葉は、事の端(は)。
物事の一端でしかなく、全部を言い表せない。
う〜ん…、確かに。
十分言い表せることなんて滅多にないことですね。
多くは足らなかったり、違う方向に伝わったり。あるいは余計なものが加わったり。
だから、その曖昧さに嫌気がさして、「そそり立つ鉛の塀に生まれたかった」なんて思うのですね。
「鉛の塀」か…。どんなイメージ?
がっしりと無機質で、有無を言わさず。…そうそう、それが「そそり立つ」のですね。
「そそり立つ」とは、「目立って高くそびえる」こと。
でも、そう思うのだって「言葉」で、だし。
それ以外の表現は「溜息」でしかなくて…。それだって、「曖昧」なもの。
面白いのは、「言葉」の背後に、「言葉」を使う「私」が見え隠れしていること。
「言葉」が思っているっていうんだけど。
「私」が「私になんか生まれてこなければよかった」と思うときと、通じるかもしれない。
もっともっと強い「鉛の塀」だったら、苦しい思いをせずとも済んだのに、とか。
でも「鉛の塀」にだって、きっと人知れずの悩みがあるかもしれませんね。
自分の重さに辟易(へきえき)している、とか。
軽やかに風と戯れたい、などと夢見ているかもしれない。
…まあ、わかりませんが。
「言葉」は「言葉」でできることを追求するしかなく、「私」は「私」でできることを追求するしかない、ですね。
うん。わかっているのだけど。
ときに、言ってみたくなるのね。
自分にないものを。
「もし、○○だったら、いいのにな」
そういうときは、ものごとがうまく回っていないとき。
また、風向きが変わったら、気持ちも変わるよ。
溜息をしっかり出して、新しい息を吸い込もうね。
「私」でよかったって思うときもあるよ、きっと。
画像は、一昨日の朝の散歩で見かけた、ご近所のステキな塀。
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