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インナー・トリップへの誘(いざな)い〜長田弘の詩「あのときかもしれない 一」〜

2018/04/03
インナー・トリップへの誘(いざな)い〜長田弘の詩「あのときかもしれない 一」〜
長田弘の詩「あのときかもしれない」は、「一」から「九」まである長編だったのだと知ったのは、この前、「七」を取り上げた時でした。
不覚にも、…いえ、大昔に「読書への誘い」第81号を作ったときには、「あ…」と思ったのかもしれませんが、それから後、失念していたのです。

いえ、違いますね。「あのときかもしれない」として「あのときかもしれない 七」としなかったのだから、その時もちゃんと理解できていないですね。
そうなんだ、「七」なんだ!と知って、今回、タイトルにちゃんと「七」を付けたのですから。

それで、改めて「一」を読むと…、ああ、これはきちんと全部を読まないと、という気になりました。

そして、「一」から順に読んでいって、私の内(なか)で、どんなことが想起するのか、それを見たくなりました。
もし、良かったら、おつきあいください。


   「あのときかもしれない 一」      長田 弘

 きみはいつおとなになったんだろう。きみはいまはおとなで、子どもじゃない。子どもじゃないけれども、きみだって、もとは一人の子どもだったのだ。

 子どものころのことを、きみはよくおぼえている。水溜まり。川の光り。カゲロウの道。なわとび。老いたサクランボの木。学校の白いチョーク。はじめて乗った自転車。はじめての海。きみはみんなおぼえている。しかし、そのとき汗つぶをとばして走っていた子どものきみが、いったいいつおとなになったのか、きみはどうしてもうまくおもいだせない。

 きみはある日、突然おとなになったんじゃなかった。気がついてみたら、きみはもうおとなになっていた。なった、じゃなくて、なっていたんだ。ふしぎだ。そこには境い目がきっとあったはずなのに、子どもからおとなになるその境い目を、きみはさっぱりおぼえていない。

 確かにきみは、気がついてみたらもうおとなになっていた。ということは、気がついてみたらきみはもう子どもではなくなっていた、ということだ。それじゃ、いったいいつ、きみは子どもじゃなくなっていたんだろう。いつのまにか子どもじゃなくなって、いつのまにかおとなになっていた。そうだろうか。自分のことなんだ。どうしてもっとはっきりその「いつ」がおもいだせないんだろう。きみがほんとうは、いつおとなになったのか。いつ子どもじゃなくなってしまっていたか。その「いつ」がいつだったのか。

 きみがいつ子どもになったかなら、きみはちゃんと知っている。それは、きみが歩けるようになり、話せるようになったときだ。二本の足でちゃんと立ってちゃんと話せるようになったとき、きみは赤ちゃんから一人の子どもになった。それに、きみがいつ赤ちゃんになったかなら、正確にその日にちまで知っている。それはきみが生まれた日、きみの誕生日だ。きみは自分の誕生日に遅刻しないで、ちゃんと生まれた。そして、一人の赤ちゃんになった。

 で、いつ、きみは子どもからおとなになったのか。あのときだろうか。あのときだ、きっとそうだ。だがきみは、すぐに打ち消す。そうじゃない。べつのあのときだ。いや、それもちがう。またべつのあのときだろう。そうだ、そうにちがいない。しかし、待てよ、子どもはただ一どしかおとなになれないんだ。それならば、おかしい。きみがおとなになった「あのとき」がそんなにいくつもあるはずがない。

 じゃあ、どの「あのとき」が、きみのほんものの「あのとき」なのか。子どもとおとなは、まるでちがう。子どものままのおとななんていやしないし、おとなでもある子どもでもなんてのもいやしない。でも、それはいったいどこにあったんだろう。ほんとうに、いったいいつだったんだろう。子どもだったきみが、「ぼくはもう子どもじゃない。もうおとななんだ」とはっきり知った「あのとき」は?
                           (詩集『深呼吸の必要』晶文社・1984年刊)



「きみはある日、突然おとなになったんじゃなかった。気がついてみたら、きみはもうおとなになっていた。なった、じゃなくて、なっていたんだ。ふしぎだ。そこには境い目がきっとあったはずなのに、子どもからおとなになるその境い目を、きみはさっぱりおぼえていない。」
…「気がついてみたら、おとなになっていた。」という感覚。
それは即座に、詩人によって「ということは、気がついてみたらきみはもう子どもではなくなっていた、ということだ。」と言い換えられる。

う〜ん…。そうね。でも私は、あまり「子どもではなくなっていた」という感覚自体が、ない。
子どもは、無邪気、天真爛漫、自分本位、というイメージがあるけど、子どものころの私はそのどれでもなかった。

親に手放しで甘えた記憶がない。
なにか…ためらいがあったり、遠慮があったりして、私はまるで「無邪気」ではなかった。
私は…誰かに自分を委ねることが苦手だった。

それにしても、詩人の視点は面白い。
「きみがいつ子どもになったかなら、きみはちゃんと知っている。それは、きみが歩けるようになり、話せるようになったときだ。二本の足でちゃんと立ってちゃんと話せるようになったとき、きみは赤ちゃんから一人の子どもになった。それに、きみがいつ赤ちゃんになったかなら、正確にその日にちまで知っている。それはきみが生まれた日、きみの誕生日だ。きみは自分の誕生日に遅刻しないで、ちゃんと生まれた。そして、一人の赤ちゃんになった。」

「自分の誕生日に遅刻しないで」ですって?
いやいや、…予定日を大幅に違えて子どもは生まれてくるのですよ。
あ、でも、その「予定日」は、大人が勝手に「算出」したもので。
本当の期日は、生まれてくる本人が決めるものかもしれない。
…そうすると、「遅刻」の概念すらあり得ない。…そうか。

それにしても、「で、いつ、きみは子どもからおとなになったのか。」の答えが見つからない。
いくつもの候補が浮かんできて。
「しかし、待てよ、子どもはただ一どしかおとなになれないんだ。それならば、おかしい。きみがおとなになった『あのとき』がそんなにいくつもあるはずがない。」
と思い。
それで、あれかこれかと、「検討」していく設定なのですね。

それが分かったので、一度に全部を読み返すことを止めました。
私も順番に「一」からゆっくり、辿っていきたくなったのです。
…というか、私も私の「あのときかもしれない」を探ってみたくなったのだと思います。

「子ども」であった記憶のない私が、いつ「おとなになっていた。」自覚を持ったのか。
…ちょっとした、「インナー・トリップ」ですね。

では、次回をお楽しみに。

画像は、朝の杏樹(アンジー)との散歩で見かけた、ご近所の桜。ちょっと変わった品種のようです。
つぼみが、ちょうど今から始まる「物語」のようで、目に留まりました。

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