海を眺めていて、遠くに見える水平線に近づこうとして、一歩でも二歩でも海に向かって歩き出したならば、
厳密な意味で、近づいてから見る水平線は近づく前に見ていた水平線とはまた違うものになっていて。
…地球は「球形」なので。
見えているのに、決して辿り着けない。
それが限りなく淋しかった。
あるいは、夕暮れの時間。
日が沈んだあとの、赤く染まった空の領域が少しずつ少しずつ狭まって。
そしてずんずんと紺色の領域が上から下りてきて。
はっと気づいたら、真っ暗闇の中に、私はひとり取り残されていて。
そしてそれも限りなく淋しかった。
私の帰る場所(ところ)はどこ?
いつの頃からかそう思っていた。
「遠くに行く」もなにも、…そもそも私には「起点」の感覚がなかった。
「あのときかもしれない 四」 長田 弘
「遠くへいってはいけないよ」。子どものきみは遊びにゆくとき、いつもそう言われた。いつもおなじその言葉だった。誰もがきみにそう言った。きみにそう言わなかったのは、きみだけだ。
「遠く」というのは、きみには魔法のかかった言葉のようなものだった。きみにはいっていはいけないところがあり、それが、「遠く」とよばれるところなのだ。そこへいってはならない。そう言われれば言われるほど、きみは「遠く」というところへ一どゆきたくてたまらなくなった。
「遠く」というのがいったいどこになるのか、きみは知らなかった。きみの街のどこかに、それはあるのだろうか。きみはきみの街ならどこでも、きみの掌のようにくわしく知っていた。しかし、きみの知識をありったけあつめても、やっぱりどんな「遠く」もきみの街にはなかったのだ。きみの街には匿された、秘密の「遠く」なんてところはなかった。「遠く」とはきみの街のそとにあるところなのだ。
ある日、街のそとへ、きみはとうとう一人ででかけていった。街のそとへゆくのは難しいことではなかった。街はずれにの橋をわたる。あとはどんどんゆけばいい。きみは急ぎ足で歩いていった。ポケットに、握り拳を突っこんで。急いでゆけば、それだけ「遠く」に早くつけるのだ。そしたら、「遠く」にいったなんてことに誰も気づかぬうちに、きみはかえれるだろう。
けれども、どんなに急いでも、どんなに歩いても、どこが「遠く」なのか、きみにはどうしてもわからない。きみは疲れ、泣きたくなり、立ちどまって、最後にはしゃがみこんでしまう。街からずいぶんはなれてしまっていた。そこがどこなのかもわからなかった。もどらなければならなかった。
きた道とおなじ道をもどればいいはずだった。だが、きみは道をまちがえる。何辺もまちがえて、きみはわッと泣きだし、うろうろ歩いた。道に迷ったんだね。誰かが言った。迷子だな。べつの誰かが言った。迷子というのは、きみのことだった。きみは知らないひとに連れられて、家にかえった。叱られた。「遠くへいってはいけないよ」。
子どもだった自分をおもいだすとききみはいつもまっさきにおもいだすのは、その言葉だ。子どものきみは「遠く」へゆくことをゆめみた子どもだった。だが、そのときのきみはまだ、「遠く」というのが、そこまでいったら、もうひきかえせないところなんだということを知らなかった。
「遠く」というのは、ゆくことはできても、もどることのできないところだ。おとなのきみは、そのことを知っている。おとなのきみは、子どものきみにもう二どともどれないほど、遠くまできてしまったからだ。
子どものきみは、ある日ふと、もう誰からも「遠くへいってはいけないよ」と言われなくなったことに気づく。そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、一人の子どもじゃなくて、一人のおとなになってたんだ。
(『深呼吸の必要』晶文社・1984年刊)
子どもの頃に「遠くに行きたい」と思ったことは、ない。
そもそもが、「居心地」のいい場所ではなかったのだけれど。
毎日の生活に汲々していて、「遠くに行きたい」と願うほどのエネルギーは残っていなかった。
父や母は私が「家にいること」を望んだ。「家から離れずに生きていくこと」を。
「家」は、建物であり、「葛原家」であり、そして、父や母、だった。
大学生の時に、初めてひとり旅をした。
けれど、正直に言えば反対されるので、親には黙っていた。
大学の研究会の合宿に参加するのに、1日だけ早めに家を出て、予め予約していた宿に泊まった。
宿のお風呂にひとり浸かって、とても嬉しかったことを覚えている。
私がひとりでここにいることを誰も知らない! そう思うとワクワクした。
それから、ひとりで動けるようになって。
働くようになって、2泊3日のひとり旅も、そして、2週間の中国奥地への旅行も!
それでも、いつも「束縛」を感じていた。
旅に出ている間はいいのだけれど、家に帰ると。
私は奈良を離れたかった。
そして、離れた。
広島は、奈良から370キロ離れていた。
高台のマンションから見える瀬戸内海は美しかった。
…でも半年を過ぎると、また淋しい私がいた。
お寺の行事がない! 花祭りも、観月会(かんげつえ)も!
いや、元々はあったのかもしれない。でも広島の中心地は原爆で焼かれていたから、新しいお寺ばかりで。
新しいお寺なんか、風情がないから、お寺じゃない!
…つまりは私の「ないものねだり」だった。
「子どものきみは『遠く』へゆくことをゆめみた子どもだった。だが、そのときのきみはまだ、『遠く』というのが、そこまでいったら、もうひきかえせないところなんだということを知らなかった。」
そうね。奈良を離れたかった私も、やはり「『遠く』へゆくことをゆめみた子ども」だったのだろう。
行って、何をする、ということまで考えてなかった。
いえ、社会的には、教員採用試験も受け直して、そのまま高校の教員を続けることは決まっていたけれど。
私自身の、「そこで生きていく」という実感を伴っているわけではなかった。
だれど、そう、半年も経てば、もう戻れないのだと知った。引き返すことはできない。
この場所で、私は自分の居場所を作らなければ、と思うまで、まだ少し時間がかかった。
悔しいけど、私は奈良が恋しかった。
奈良が恋しくなると、「大和は国のまほろば」と口ずさんだ。
「大和は國のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 大和し 美(うるは)し。」(『古事記』)
穏やかな瀬戸内の海の風に吹かれながら、目を閉じて、奈良のこんもりとした緑の山々を想ったりした。
「帰る場所(ところ)」を探し求めていた私に、ある人が「自分のいる場所が自分の帰るところ」だと言った。
そうかと思った。
そうか…私が私の帰る場所。
どこにいても、私が私の帰る場所。
そう思うと、心が落ち着いた。
「『遠く』というのは、ゆくことはできても、もどることのできないところだ。おとなのきみは、そのことを知っている。おとなのきみは、子どものきみにもう二どともどれないほど、遠くまできてしまったからだ。」
子どもの自分には、もう二度と戻れないんだろうか?
いや、私はそうは思わない。
私の中の小さな私は、ちゃんと私の中心部分にいるように思う。
それ以外の私も、生きた年数だけ、たくさんできているけど。
「子どものきみは、ある日ふと、もう誰からも『遠くへいってはいけないよ』と言われなくなったことに気づく。」
「行ってはいけない」場所は、ない。遠くだろうが近くだろうが、行きたいならいっていい。
そう、自分の中に流れるメロディーを感じながら、弾むように動いていっていい。
その自由は確保しておきたい。それはおとなの醍醐味だから。
画像は、ご近所の花モモ。ピンクと白と、それから二つが混じった斑入りの3種類の花を咲かせています。
3つが同時に成立するなんて、素敵だと思いませんか?