【「なぜ?」という疑問を発しなくなる〜「あのときかもしれない 六」】で、「私はまだ、『おとな』になっていないのだろうか?」という疑問が湧き起こり、う〜ん、と唸ってしまったのだけど。
そのあとのボイス・アートのレッスンで、まや・はるこ先生に、
「自分を出していい相手かどうか、人を選ぶようになった、というのはおとなになった証拠」と言われ、なるほどなあと思いました。
「無闇に傷つく必要はないからね。」と。
今回は、一層先に進んだ感のある「あのときかもしれない 八」。
「高い頂き」のように思っていた父親が、等身大に見えた一瞬を捉えたもの。
「あのときかもしれない 八」 長田 弘
父親は黙っていた。ときどきおおきな湯呑みに口をつけ、目を据え、息を呑むように静かにすする。湯呑みにはいっているのは、茶ではなく、冷たい酒だ。灰皿が、煙草の吸殻でいっぱいだった。怒っているのかとおもったが、ちがっていた。かんがえこんでいるというのとも、ちがう。きみをみても、口もきかず、すぐに目をそらした。ただじっと暗い目をしていた。それから、いきなり立ちあがると、そのまま部屋をでていった。玄関の戸がガラガラと開いて、閉まる。
夏だ。長い一日がようやく終わろうとしていたが、空はまだ明るかった。遠くの山の尾根の影が切り絵のようにきれいだった。父親のあとを追おうとして、きみはためらう。家にはほかに誰もいなかった。きみは本をひっぱりだして読む。わざわざ声をだして読む。しかし、物語のすじがうまくのみこめない。ふいにきみは、あんなふうな父親をみたことはそれまでなかった、とおもう。本を閉じて、きみは急いで立ちあがる。自分の気もちを押すように、自転車を押して、道にでる。
ゆっくりと日暮れてゆく夏の街を、息をつめながら、きみは自転車を走らせる。低い家並みのつづく通りをぬけて、川までゆく。堤防を走って、神社の横のもううすぐらい道にでる。境内を横切って、カラタチの生垣のつづく小道を走る。そうして街を一めぐりして、やっときみは、丘の下の広い運動場で、父親を見つける。父親はおおきな野球のバックネットを背に、たった一人で黙々と、おもいきり力をこめてバットを振っていた。見えない打球がまっすぐに、みえない野手の頭のうえを、低いライナーで抜いてゆく。鋭く叩きつけるような振りだった。
バットの先がくるっとすばやくまわるたびに、そこに一瞬、風の切羽があらわれるようだった。きみには父親がいまにもそのちいさな切羽のなかへはいってゆこうとしている男のようにみえた。男はこころのそとへ、懸命にでてゆこうとしていた。
きみは、誰もいない夏の日の落ちぎわの広い運動場で懸命にバットを振りつづける一人の男を、遠くまで黙ったままみつめていた。一人の男の影がグラウンドにどんどん長くなった。その男はきみの父親だったが、しかし、きみがそこに認めたのは、怒りたいのか泣きたいのかわからないような気持ちをどうしようもなく自分に抱えていた一人の孤独な男だったのだと、ずっと後になって、きみはふしぎに懐かしくおもいだすだろう。
そのときは、はっきりそうとはわからなかったし、父親がそのとき何をくるしんでいたかも、きみは知らなかった。たぶん、ほんとうの勇気が日々にちいさな敵にうちかつことだとすれば、そのほんとうの勇気に欠けていたというだけだったのかもしれない。
しかし、そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、一人の子どもじゃなくて、一人のおとなになってたんだ。きみが、一人の完全な人のでなく、誰ともおなじ一人の不完全な人の姿を、夏の夕暮れのグラウンドで、遠くからきみの父親の姿にみつめていたとき。
(『深呼吸の必要』晶文社・1984年刊)
私が定職を持たない人と結婚すると告げたとき、父は明らかに動揺した。
「なぜ?」と父は問うた。
なぜ?と問うのか? と逆に私は腹立たしかった。
私はひとり暮らしがしたくて、両親に黙って住宅公団に申し込みをしていた。
家に書類が送られてくると、途中でポシャってはいけないから、「みりあむ」の節夫さんに頼んで、節夫さん宅に郵送してもらった。
節夫さんから受け取って、自分の部屋に置いてあった書類一式を父は見つけ、節夫さん宅への郵送だったことであらぬ疑いを節夫さんに掛け、そして節夫さんに電話したのだ。
「うちの娘に何をするのか」と。
私との間に何のやましいこともない節夫さんは、父の疑いを否定し、なおかつ、どうして成人した娘をそこまで縛るのか、とまで言ってくれたらしい。
まるで価値観の異なる父は、どういう話で収めたのか、わからない。
私には、「家を出るときは、結婚するときしか駄目だ。」と言った。
嘘つき!と私は思った。
私が19の時に、同じ敷地に「離れ」を建てたくせに!
「離れ」は、結婚したら私が住むように建てられたものだった。
私はイヤだと言ったのに。
すべてすべて、どんどん自分の将来が勝手に作られていく苦しさは、まるで真綿で首を絞められていくようだった。
大学を出た私は「自分のやりたいこと」を見つけることよりも、経済的自立を優先した。
…私が「息をする」ために。私の心が「生き延びる」ために。
結婚しないと家から出さないと言うのなら、結婚しようと思った。
住むところはもう確保できた。
相手は?
彫刻をやっていきたいと言っていた人だった。
私は「自分のやりたいこと」をまだ見つけてなかった。
彼が彫刻をやっていきたいというのなら、それでもいいと思った。
私の決心が固いことが分かった父は、絞り出すような声で言った。
「…お父さんが、おまえにしてやれることは、もう、ないのか?」
父は私を愛してくれていた。
けれど、その方向は間違ったものだった。
「お父さん、お父さんは見守ってくれてたらいいのよ。私が歩いていくのを。お父さんには見守っていてほしい。」と私は言った。
節夫さんは、3歳の娘に、はしご段を昇らせる人だった。
父は…囲い込んでケガをさせないようにする人だった。
「…見守るだけなのか…。」と父は言った。
父には拒絶の言葉でしかなかったかもしれない。
子どもを持ってから思うのは、「見守る」のは、とても勇気の要ること。耐える力の要ること。
へその緒を切っているはずなのに、子どもが怪我をすると自分の身が痛い。心が痛い。
ケガをしないように先回りしてしまう。
それが、子どもを本当の意味で生かすことにならないと、なかなか気づけない。
私も気づかぬうちに、先回りする愚かな親になっていた。
大学を卒業したあとも、そして私と結婚したあとも、彼は作品を作らなかった。
作らない自分と向き合っているように、私には思えなかった。
それで私は、ひとりに戻った。
「帰っておいで」と父も母も言った。
いやいや、と私は思った。多大な犠牲を払って得た、自分だけの空間を手放す気などさらさらなかった。
私は当初の予定通り、公団に住み続けた。
「見守るだけなのか…?」と言った父は、私にとって、もう「高い頂き」ではなかった。
肩を落として、威圧感もなく、こんなにも普通の人だったのか、と思った記憶がある。
「ごめんね」と思った。でも、だからといって、私は私を手放すわけにはいかなかった。
私は私の道を歩こうとしていた。
画像は神戸のヨガスタジオ「スペース わに」。
板張りの、本当に呼吸しやすい空間。
人が集い、語らい、柔らかなエネルギーが流れる。
私はこんな場所を創りたいのです、…昔も、今も。