一昨日の夜、「中津ぱぶり家」で「読書会 詩る知る」があって、ちょっと面白そうに思えたので、参加してきました。
この日取り上げられた作品は、村野四郎の『体操詩集』。
初めて聞く詩集名だったので、当然手元になく、予め買い求めました。
梅田でのボイスアートのレッスンのあとだったので、ちょっと遅れていったのですが、ちょうど、印象に残った詩を各自が発表したあとでした。
それで、私にも「どの詩が気になりましたか?」と問われて。
いくつか、競技名での詩が並んでいるのですが。
私の目に留まったのは、「飛込」という詩。
「飛込」 村野四郎
僕は白い雲の中から歩いてくる
一枚の距離の端まで
大きく僕は反る
時間がそこへ皺寄る
蹴る 僕は蹴つた
すでに空の中だ
空が僕を抱きとめる
空にかかる筋肉
だが脱落する
追はれてきてつき刺さる
僕は透明な触覚の中で藻掻く
頭のうえの泡の外に
女たちの笑や腰が見える
僕は赤い海岸傘の
巨い縞を掴まうとあせる
この詩の前に、もうひとつ「飛込」と題する詩があって。
そちらの方は「あなた」が主語で。
まあ、一応、「対」ということなのでしょうけれど。
この詩の言葉で、まず「時間がそこへ皺寄る」が目に留まり。
飛び込む前にタタタっと飛び込み板まで進み、そうして身体を反らせると、飛び込み板は次への動きに向けて、たゆみ。
その辺りの感覚が「時間がそこへ皺寄る」か…。
緊張感と共に期待感が一気に募る感じ。
息を詰めて一点に集中している感じ。
けれど、完結した動きではなく、次への動きをはらむ、一瞬の静止。
2連の「追はれてきてつき刺さる」のは、水面に、でしょう。
そうして「僕は透明な触覚の中で藻掻く」のは水中の動き。
最初、私は水面に届く前の段階で描写が終わっているのかと思ったのだけど。
そうではなくて、競技としての「飛び込み」は完結しているのですね。
水中から見る「女たちの腰」がエロいという発言もあったけど。
(いや、そうではない、下からの視線で、下半身しか見えないのではないか、という意見もあった。)
私がこの詩に感じるのは、むしろ、一瞬の動きをコマ撮りで描写してみようという詩人の「実験」。
この詩に付けられたベルリンオリンピックの「飛び込み」写真も、水面に届く前の斜め45度の下向きの身体でしかなくて。
言葉による描写は、どこまでいっても、一瞬一瞬をコマ撮りのように連ねるしかなくて。
しかし、その一瞬一瞬を丁寧に描写することで、「永遠」につながる「今」を描こうとしたのではないか?
と、そんな気がするのです。
今、こうやって言葉を紡いできて…、私が思い出したのは、ゲシュタルト療法での「気づきのワーク」。
「外部領域の気づき」(目に見える、耳で聞こえる等の五感による気づき)、「中間領域の気づき」(考えていること、自分が想像していること)、「内部領域の気づき」(自分が感じていること)をひとつひとつ丁寧に、ゆっくりと、描写していくのですけれど、その時のゆったりと流れる時間は、「永遠」にも近い一瞬だな、と思ったことが何度もあって。
村野四郎は、そういった「時間」を描こうとしたのではないか?
と思ったことでした。ただまあ…その場では私もそういった言葉で集約できなくて。
ただ…そういう「感覚」は自分も創る側に身を置こうとするからかもしれない…と今、思います。
ああ、そうか。私は「鑑賞」する側でなく、創る側のヒントを得たいのだ、ということに今気づきました。
リーフェンシュタールの名を村野四郎が前書きで取り上げていました。
ナチスのプロパガンダ映画として批判もされましたが、その映像美は紛れもなく本物だったと、懐かしく思い出しました。