このまえ「読書への誘い」第92号を更新して、そのとき以倉紘平の詩「冬の日」を改めて読み返しました。
この人の、独特な世界観を味わいたくて、今回取り上げます。
「冬の日」 以倉 紘平
ロケットから送られてくる地球の映像を
茶の間のテレビジョンが流している
地球の弧の上をうっすら覆っている大気圏
地球をリンゴの大きさとすれば
大気の層の厚さはリンゴの皮ぐらいですなどと。
繊(ほそ)いブルーのリングが濃紺になって
宇宙の闇に溶けている
手袋とマフラーの重装備で
娘と二人手をつないで外出する
木枯らしの吹く空を見上げたが
まずは何ごともない
近所の眼科で腰かけて順番を待つ
最近 肉眼でみる活字がたよりなげに見える
眼鏡はかけないでねと
足を揺らしながら娘は言うが
不器用なぼくにコンタクトレンズの使用は無理だろう
〈角膜の上には涙の薄い層があり、レンズは
涙の上に浮いた状態で安定しています〉と
ポスターにはある
眼の半球を覆っている薄い涙の膜に
レンズが浮かんでいる拡大写真
危なげだなと眺めていると
急におかしみがこみあげてきた
どうしたのと 尋ねられても
まだ小さなお前には
わかってもらえそうにない
存在は〈涙の薄い層〉につつまれ
見るとは〈涙の薄い層〉を通すことだなんて!
(詩集『地球の水辺』湯川書房・1992年刊)
「ロケットから送られてくる地球の映像」がまずあって。
それは「地球の弧の上をうっすら覆っている大気圏」に包まれていて。
で、いきなり眼球の話になって。
「眼の半球を覆っている薄い涙の膜に/レンズが浮かんでいる拡大写真」。
この両者が、リンクして。
こういった大胆なイメージの重ね合わせが、壮大なスケールの「洞察」へと導く。
地球上に「うっすら覆っている大気圏」がなければ、生物は生存し得ない。
同様に、目にも「薄い涙の膜」がなければ、何も見ることができない。
そうね。見る(=認識する)ことができなければ、その存在はないも同然。
つまりは「存在は〈涙の薄い層〉につつまれ」ていて、
そして、肉眼が衰えてきた日には、その薄い涙の層にレンズを浮かべるしかない!
うふふ…と思いましたよ。
昔ね。「『目から鱗』って言うけど、私は『目から鱗』が取れると、なあんにも見えないのよ!」って言ってたこと、ありましたっけ。
ものの存在は、何かを通すという「間接的」な認識方法に依らざるを得ない、ということ。
それは何も「見る」ことに限らず、何かを知るときに、「誰に紹介してもらったのか」によっても、その何かへのその後の認識に大きな影響を与えるような気がする。
そういう意味で、教員は、子どもたちに何かを紹介する最初を創り出す点で、とても存在が大きい気がする。
もちろん、最初の出会いのきっかけの多くは親だろうけれど。
個別の出会いではなく、集団での出会いの場、ということで。
同窓会が廃れないのは、そういった集団での記憶が人を結びつけている、こともある気がしてならない。
教員を辞めた私は、今度はどんなものとの出会いを創り出すのだろう…と思った朝でした。
画像は、1週間ぐらい前に、ご近所で1日だけの薔薇のガーデニング開放をされた時のもの。
ウエルカムボードも手作りのようでした。
…そうですね。ウエルカムな気持ちで心をオープンにしていないと、「出会い」は生まれませんよね。