昨日は、母が「お墓の掃除に行きたい!」と言いだして。
そうね。この前行ったのは、3月のお彼岸だったっけ? と思って。
だけど、昨日は日中の気温が随分上がって、とてもじゃないけど、お墓で日陰がない中、草むしりなど出来そうになくて。
夕方のアンジーの散歩を終えてから、出掛けました。
お墓に着いたのが、5時半過ぎで、まだ日が高かったのだけど、それでもちょっと斜めの日差しになっていて。
2ヶ月来なかったら、あんなに綺麗にしたのにまた草ボウボウで。
そう。この前はスコップやらを持っていって根こそぎにして、最後は箒で砂をならして綺麗にした。
ちょっとやそっとで草も生えそうになかったのに。
ホント、雑草はたくましい。
今回も、根こそぎにして、箒で砂をならして。
小一時間で元どおり綺麗になりました。
「2人でやったら早いね。」と言う母の言葉を聞きながら、いずれ私ひとりで来るようになるんだろうか…とぼんやり考えていた。
しゃがむ姿勢は私にしても結構キツくて、腰が痛い。
そのうち母は来られなくなるかもしれない。
…そして、母がいなくなる日も来るだろう。
私が来られる限りは「墓守」するけど、…さて、子どもはどこで暮らすのか…。
遠くて、とても「墓守」出来そうになかったら、もしかすると、私は「墓終い」を決心するかもしれない。
お墓は、生きている人のためのものであるように、私には思えるので。
自分自身は、お墓が欲しいと思ったことは一度もない。
散骨でいいと思ってる。
私のお墓は…子どもが望むなら、でいい。
…そんなことは、母にはとても言えないけど。
「お墓」という形にこだわらなくていい。
菩提を弔う気持ちがあれば、どこでだってできる、と思っている。
形にこだわると、「ねばならない」が先行して、気持ちがどこかへ飛んでしまう。
そう思っている。
ここは霊園だから、多くの墓石が並んでいる。
母が…多くの人が、形にこだわるのはなぜだろう?
多分…安心したいから、だろうな。
自分の居場所はここで、それが永遠に続くと思いたいんだろうな。
でも、私には「人は2回死ぬ。一度は肉体の死。二度目は人から忘れられたとき。」という言葉が響いていて。
人の記憶から消えたときに完全消滅するんだろうなと思っている。
人が家族を持ち、友人を持って親密な関係を築くのは、そこに自分の居場所を見いだそうとするからに他ならない。
けれど「記憶」という形の定まらないものに全部を委ねるのは、なんだか頼りなく思えるのだろう。
でもね。
草ぼうぼうで…ほったらかしになっているお墓もあちこち見受けられて。
自分の願いは、子や孫に受け継がれるわけでもないことが、ここにいるとよくわかる。
「形」にすると、時に無残に、そのことがさらけ出される。
ならば、いっそ、「形」から解き放たれてもいいのではないか?
と、そんな気が私にはするのです。
画像は、ご近所の1デイ限りの薔薇のオープンガーデンをされた時のもの。
薔薇の色香もすぐに失われるけど、でも、アロマを学び始めて、香りの記憶も少しなら残せるようになりました。