このところ朝夕が急に涼しくなって、寒いときがあるぐらいです。
今日のお天気も、ちょっと曇り空。
今週の秋雨が終わると、急に冷え込むそうなのですが。
今朝の詩は川崎洋の「なぜ」。「読書への誘い」第107号で取り上げたものです。
「なぜ」 川崎 洋
なぜ 風は
新しい割りばしのように かおるのだろう
なぜ 鳥は
空を滑(すべ)れるのだろう
なぜ 夏蜜柑(なつみかん)は酸(す)っぱいのだろう
なぜ 海は
色を変えるのだろう
なぜ たった一人の人を愛するようになるのだろう
なぜ 涙は嬉しい時にも出るのだろう
なぜ フリュートはあんなに遠くまでひびくのだろう
なぜ 人はけわしい顔をするのだろう
なぜ ギターの弦(げん)は5本でなく7本でなく6本なのだろう
なぜ
なぜ
なぜ
そして 人は なぜ
いつの頃からか
なぜ
を言わなくなるのだろう
(詩集『祝婚歌』・山梨シルクセンター出版部・1971年刊)
私は昔から「なんで?」と言う子どもでした。
よくわからなくて、そして、いい加減でなくちゃんと分かりたいために聞くのに、親からは「素直でない」と言われました。
だから、子どもから「なんで?」と言われたら、極力、答えるようにしてきた、と思います。
いまだに母の話に「なんで?」と言ってしまうことが多いらしくて、「もういい! 何も言わん!」と言われたりします。
「あんたは理屈っぽいから嫌や」とも。
でも…やっぱり、母がなんでそんな風に考えるのか、なんでそんな行動を取るのか、わからないのです。
ということは、きっと母も私の言動が基本分からない、のでしょうね。
で、この詩なんですが、風が「新しい割りばしのように かおる」こと、鳥が「空を滑れる」こと、
そんな風に思ってもみなかったけれど、そう言われるとそんな風に感じられる、というのが不思議ですね。
あ、それは私が、ということで、そうでない人もいるでしょうけれど。
「人は/いつの頃からか/なぜ/を言わなくなる」ことに対して、川崎洋は「なぜ」を発するのだから、
彼もきっと、「なぜ?」を発し続けたのでしょうね。
多分…「なぜ」を発していい人とそうでない人と、ちゃんと区別して対応したらいいだけなのかもしれないけれど。
でも、「なぜ?」って言うのは、知りたいから。
半世紀生きてきても、よく分からないことが多くて、つい私の好奇心が動き出す。
で、「そうなのか!」となったときには嬉しくて、人に聞いてもらいたくなる。
詩人は、そんな時、詩を書くのでしょうね。
ああ、だから、私もこんな風にコラムを書きたくなるのか!
と、独りごちた朝でした。
画像は昨年秋に撮った奈良町のお店。
なぜ、ビール瓶のオブジェがぶら下がっているのか?
それは、まあ、宣伝のためでしょう。