「忘れた」 吉原幸子
覚めたとき わたしにはわからない
夢のなかで みたと思った色が
色 そのものであったのか
それとも ただ 色の記憶であるのか
赤なら 赤
といふことばによって ふりかへる
するともう 赤はない
そして 今
わたしには わからない
持ったと思ったものが
生活 そのものであったのか
さまざまの色の断片(きれぎれ)に ちりばめられた
ただ 生活の 記憶であるのか
夕やけのガラスは オレンジ色だと思った
シャワーの水しぶきは ダイヤモンド色だと
思った そのことだけが のこってゐて
水しぶきも ガラスも のこってゐない 今
(詩集『幼年連禱』・ 1964年刊)
色付きの夢って私はあまり見たことがないのですが。
あとであれは鮮やかな青だった、と思うことはあっても、
全体に色があった風でもなくて。
しかし、それが確かに夢の中で見た色だったのか、
その色の記憶を、目覚めた後で思い出しただけなのか、
と問われると、私も定かではない。
私は作者と違って、そんなことを問題にしたことはなかったけれど。
実際に夢に見たのか、
自分が過去の記憶からそう思っただけなのか…
という問題は、
自分の生活そのものへと向けられる。
「持ったと思ったものが/生活 そのものであったのか
さまざまの色の断片(きれぎれ)にちりばめられた/
ただ 生活の 記憶であるのか」と。
ああ、自分が「持った」と思ったものの不確かさをテーマにしているのね。
今、私は引っ越しのための片づけをしていて、
2年半前に「とりあえず」物置に放り込んでおいたものの存在に
びっくりしたりしている。
私は、広島にいた25年の間にも
引っ越しを4回もしたので、
そのたびごとに「断捨離」して来たつもりではいるのだけれど。
大切にとっておいた「もの」が
そのまま大切なものである場合もあるし、
今となってはもう大切でなくなっているものもある。
「今となってはもう大切でない」のは、
そのとき「大切に思えた」ものでも、今では必要でなくなって
そのときの「輝き」が色褪せてしまったから。
「もの」が大事というより
「もの」によって呼び起こされる「記憶」が
大事なのかもしれない。
「記憶」は「もの」で残せないものもあって。
それは「夕やけのガラス」であったり
「シャワーの水しぶき」であったり…する、「生活の 記憶」。
「思った そのことだけが のこってゐて/
水しぶきも ガラスも のこってゐない 今」
とは、夕やけのガラスを見ても、
そのときのような「オレンジ色」だと思えない自分、
水しぶきを見ても、
そのときのような「ダイヤモンド色」だと思えない自分が、
今、ここにいる、という意味でしょう。
となると、問題は、
そのときのような、みずみずしい感覚を持てない「自分」にあるのでしょう。
ああ、作者が見失っているのは
「みずみずしい感覚を持っていた自分」なのですね。
そうか…。
でも、それなら、また、取り戻せる。
何か辛いことが続くと、
いっとき、
「感じる心」を麻痺させて乗り切ろうとするから、
そんな風になったりもするけれど。
でも、大丈夫。
「感じる心」は決して失われたりはしない。
カウンセリングに来られる方を見ていて、
そう思います。
大丈夫。
あなたにも、笑顔が戻ります。
画像は、自宅のウッドデッキ。
母のたっての願いで、
白いブランコと、オレンジのパラソルは引っ越し先に持っていきます。
カウンセリングルーム 沙羅Sara
あなたはあなたのままで大丈夫。ひとりで悩みを抱え込まないで。
明けない夜はありません。
電話番号:090-7594-0428
所在地 : 生駒市元町2-4-20
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