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がらんどうの頭蓋骨(ずがいこつ)〜折々のことば・鷲田清一#1682〜

2020/01/24
がらんどうの頭蓋骨(ずがいこつ)〜折々のことば・鷲田清一#1682〜
2019年12月28日の小池昌代の言葉。

背後を思うとき、自分ががらんどうの頭蓋骨(ずがいこつ)になったような気がする。


鷲田清一の解説。

後ろ姿というのはよりによって当人だけが見られないもの。
それは無防備に他人の視線に晒(さら)されている。
だからそれにふれる時、「見てはならないものを見たようで後ろめたい感じを覚える」と詩人は言う。
見えない背面、それは絶対に体験できない自己の死に似ている。
<私>の存在はその意味ですでに「彼岸」へと明け渡されている。
随想集『暗雲の下で卵をあたためる』から。

「彼岸」。ウィキペディアには、

サンスクリットのpāram(パーラム)の意訳であり、仏教用語としては、「波羅蜜」(Pāramitā パーラミター)の意訳「至彼岸」に由来する。

Pāramitāをpāram(彼岸に)+ita(到った)、つまり、「彼岸」という場所に至ることと解釈している。

悟りに至るために越えるべき迷いや煩悩を川に例え(三途川とは無関係)、その向こう岸に涅槃があるとする。

ただし、「波羅蜜」の解釈については異説が有力である。

とありました。平たく言うと、「あの世」のことのようですね。
あるいは、悟りを開いた「涅槃」の世界、か。
「あの世」と「涅槃」は似て非なる、感じがしますが。

死んで「この世」に別れを告げたとて、「涅槃」に至っている訳ではないでしょうから。

私には、20代で出会った「チベット仏教」の「死」に際しての考え方が、自分にしっくりきていて。

魂が肉体を離れようとするとき、僧が耳元で導く。「光の方向に歩んでいけ」と。
だが、眩しくて目が開けられない。つい、目を逸(そ)らす。そして、光の方向には歩んでいけない。
亡くなって2,3日は、光の方向に歩むことに誘導していた僧も、それは諦めて、今度は、「人間に生まれ変わる」方向に誘導し始める。

光の方向に歩んでいけたら、もう生まれ変わらなくていいのですね。
もう「悟った」ということなのでしょう。
ですが、目をそらしてしまう(=悟り切れていない)輩(やから)は、もう一度、生まれ変わって、「修行」をし直さなければならない。
転生は、「修行」ということのようで。

目を逸らす、のは「怖れ」から。
とてもあの眩しい世界には、入っていけない、と自ら諦める、ようで。

ああ、「この世」に生きているのは「修行」なのか…。
そして、その「修行」は「怖れ」を自分の中から手放すため。
その考え方に、とてもしっくりきて。

さて。小池昌代の言葉に戻って。
確かに、自分の「背後」は自分では見られない。
かろうじて、合わせ鏡に映してみる、という手はあるけど、それとて、左右が逆で。
人が見るようには、自分の背後は見られない。

でもそれは、自分のことは自分でよく分かっているようで、「盲点」のように抜け落ちている部分がある、というのとよく似ている、と私は思う。
鷲田清一は、「絶対に体験できない自己の死」と重ね合わせるけれど。

「自己の死」は体験できない、のだろうか?

人が外から見ているようには、体験できないのかもしれないけれど、自分の内(なか)で、「死にゆく自分」は体験できるのではないか? と私は思う。
…レポートできないのが残念だけど。

鷲田清一は、小池昌代の感じた「がらんどうの頭蓋骨」を、「<私>の存在はその意味ですでに「彼岸」へと明け渡されている。」と見る。

…そういえば、10代の頃、<私>は<私>を全て把握できない存在である、ことに気づいたとき、何か、怯えを感じた記憶がある。
私には、私の知らない私がいて、なのに、あろうことか人はそれを知っていて…。
そういえば、「あなたはこういう風な人だよね。」と言われるのが恐怖だったことも、今、思い出した!

…そう、私は私の知らない「私」が、一人歩きして、それがどんどん増殖されていって、巡り巡って、「私ってこうなのよ」と言い出すのが怖かった。
「私はそんな風じゃない!」と言っても、押し寄せてくる「私」が、「だから、こうなんだって!」と押しつけてくるのが怖かった。
…それは私にとって、「縛り」でしかなかった。

ああ、こんなことを書くと、「怪しい」人のようだ。
大丈夫。私はもう10代の私、ではないから。
ただ…「人が怖い」という若い人の、「怖さ」ってこんな感じなんだろうか? と思うだけで。

がらんどうの頭蓋骨。
表向きを飾っても、最後に残るは「卒塔婆小町」。
でも、「結果」ではなく「経過」が大事なのでは? と思う。

自分が関知できない、ということでは、自分が醸し出す雰囲気も、自分でどうにかしようと思ってもどうにもできない。
「人としてのありよう」は、自分が創ってきたものであるでしょうけれど、「人が感じる」私のありようは、私にはどうにもできない。
年を重ねると、「背後」だけでなく、私の醸し出す「雰囲気」も、如実に私の人生を表現しているのかも、と思う。

画像は、このまえ「ドッグサロンそら」さんで撮ってもらった杏樹(アンジー)。
何を被せられてるの? と思ったけど、今年はねずみ年だからなんだ!
ネズ公アンジーは、これを本人はどう思っているのか、定かではありません。

<追記>
引用元の随想集の名前、『暗雲の下で卵をあたためる』って…ちょっと、怖い。

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