2020年1月26日の言葉。
物事について考えを固めてしまわず、見えているものを疑うよう心を開いておけば、世界を眺める目も丁寧になる。ポール・オースター。
鷲田清一の解説。
それを「注意深さ」と米国の作家は呼ぶ。
「爆笑もののヘマ、胸を締めつけられるような偶然」やさまざまの夢、混乱。
自分が答えをもつ訳ではない事柄に人は翻弄(ほんろう)されつつ生きるのだからと。
ラジオのリスナーたちの悲喜こもごもの体験談を集めた『ナショナル・ストーリー・プロジェクト Ⅰ』(柴田元幸他訳)の「編者まえがき」から。
ボイスアートの「お辞儀呼吸法」をお伝えするとき、「目は閉じているか、半眼で」と告げる。
半眼。うっすらと目を開け、ぼんやりと周囲の状況を感じ取る。
見ているようで、見ていない、状態。
視覚からの情報は、全情報の7割、と聞いたことも、9割と聞いたことも、ある。
つまりはそれほど、私たちは目からの情報に頼っている。
見て、もののかたち、色、その質感を感じ取る。
質感は…想像でしかない。けれど、過去の記憶を呼び起こして、「こんな風だろうな…」と予測する。
それでおおよそは「見当がつく」ようにできていて、そうすると、それは「処理済み」扱いされて、意識から遠ざかる。
既存の知識の塊に、追加されるだけで。
でも、「それ、ほんとう?」と見えているものに疑念を抱くと、ざわざわと気持ちは落ち着かない。
だって、何か新しいカテゴリーを立てないといけない、ということは、自分の認識世界の枠が、もしかすると根底から覆される危険性を持っている訳で。
既に認識済み、の枠の中に入れてしまった方が、精神衛生上よろしいので、そうしたくなる。
それをあえて拒否し、「心を開いておけ」という。
それは「注意深さ」なのだと。
「自分が答えをもつ訳ではない事柄に人は翻弄されつつ生きる」、それが人生だと。
達観した人の言葉だなあと思う。
「注意深く」しておくのは、不測の事態にもうろたえないで済むように。
「こんなもんだ」と、物事を、世界を見くびった時、その物事から、思ってもないようなしっぺ返しが来るような気がする。
そうして、堅固に思えていた「世界」はもろくも崩れ落ちる。
そうならないように「世界を眺める目」を丁寧に保て、という。
「丁寧に」というのは、少なくとも「見くびらないでいる」ことのような気がする。
こう思っているけれど、これまでの知識ではこういうもののような気がするけれど、もしかしたら、違うかもしれない、と保留にしておける心の強さ、を求められている気がする。
画像は、日が昇る前の、橋本市から五條市を望む風景。
電車や道路といった建造物も含めた人の営み全部が「生活」で、それも「自然」なのだと、人の手つかずだけが「自然」なのではない、という気がしました。