朝の、まだ始発の電車が走らない時間。
私は、長田弘の詩集『深呼吸の必要』を開く。
今日の詩は? ああ!これだ。
贈りもの 長田弘
幼い誕生日の贈りものに、木をもらった。
一本の夏蜜柑の木。木は年々たくさんの実を
つけた。種子がおおく、ふくろはちいさかっ
たが、噛むと歯にさくさくと、さわやかな酸
っぱい味がした。立派な木ではなかったが、
それが自分の木だとおもうと、ふしぎな充実
をおぼえた。葉をしげらせた夏蜜柑の木をみ
ると、こころがかえってきた。
その夏蜜柑の木は、もう記憶の景色のなか
にしかのこっていない。あのころは魂という
のはどこにあって、どんな色をしているのだ
ろうとおもっていた。いまは、山も川原もな
い街に暮らし、矩形の部屋に住む。魂のこと
はかんがえなくなった。何が正しいかをかん
がえず、ただ間違いをおかすとしたら、自分
の間違いであってほしいとおもっている。部
屋には鉢植えの一本のちいさな蜜柑の木があ
る。それは、誕生日に年齢を算えなくなって
から、きみがはじめて自分で、自分に贈った
贈りものだ。
ときどきアントン・バーウォグイチの短い
話を読む。人生はいったい苦悩に値するもの
なのだろうかと言ったチェーホフ。大事なの
は、自分が何者なのかではなく、何者でないか
だ。急がないこと。手をつかって仕事するこ
と。そして、日々のたのしみを、一本の自分
の木と共にすること。「最初の質問」に「木を友人だと思ったことがありますか」というのがあったように思うけど。
そうか。長田弘には、一本の蜜柑の木があったんだ!
…そうね。広島に行ってすぐの5月。
広島市中区の公園で開かれていた植木市で、自分の背丈と同じぐらいのベンジャミンを買い求め。
広島にいた25年、一緒にいた。
「ベンちゃん」と呼んでいた。
太い一本の木の幹に枝を広げ、わさわさと葉を茂らせた。
よくあるような、細い幹を3本ほど絡ませて太い幹にしたもの、ではなかった。
クリスマスには、この木にライトを巻いて飾り付けをした。
「ベンちゃん」で作文を書いて、子どもが「みどりの日作文コンクール」で賞をもらったりした。
夏場はベランダに出して、陽に当てる。
冬場は、家の中に入れて寒さを凌ぐ。
広島から奈良に帰るときの「荷物」にも積み込んで、連れて帰った、というに。
なんと! 奈良で枯らしてしまった。
なんか、呆然として涙も出なかった…気がする。
言葉を使って話はしない、けど、木と一緒にいると、確かに「魂のありか」を考える。
私より長く生きるだろう木が、何を思っているか、など、とりとめのないことを想ったり、する。
矩形の部屋! 「くけい」って読めなかった。「さしがた」ともいうらしい。長方形のこと。
「ただ間違いをおかすとしたら、自分の間違いであってほしいとおもっている。」って何だろう?
自分の間違い、以外に何がある? …自分に関わる範囲で済むように、ってことかしら?
それから…「誕生日に年齢を算えなくなってから」って幾つぐらいから、だろう?
…私もすでにもう、自分の年齢を考えてない、気はするけれど。
極めつけが、「大事なのは、自分が何者なのかではなく、何者でないかだ。」という言葉。
読んだとき、一瞬、え? と思った。
…そうね。大人になっていく過程で、一生懸命「何者かになろうと」してきた、気がする。
そして、わかってきたのは、「私はこれではない」「あれでもない」という、「これは違う」が見えてきた、ということ。
積極的に「自分は何者である」と規定しなくてもいい、のかもしれない。
焦って、自己規定しなくていい。
長田弘は言う。「急がないこと。手をつかって仕事すること。そして、日々のたのしみを、一本の自分の木と共にすること。」
なにか…この最後の方の言葉を味わえるのは、私が人生の「折り返し」を過ぎて、残りを意識するようになった、からかもしれない。
画像は、この前、ふらりと生駒山中腹にある「鬼の茶屋」に向かう途中で撮った秋桜。
一本ですっくと立っている姿もいいけれど、こんなふうに群生しているのもいいように思いました。カウンセリングルーム 沙羅Sara
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