2020年12月5日の「折々のことば」。
飛ぶのは簡単だけど、歩くのはなかなかむずかしい。
中川素子の言葉。
鷲田清一の解説。
羽を外して歩く練習をくり返す小さな天使たちが降り立ったのは、戦争の絶えない「悲しい星」、地球だった。
そこで彼らは…と物語は続くのだが、私はこの言葉を勝手に深読みした。
社会を高みから俯瞰(ふかん)するより、出来事の藪の中を歩み抜くほうが難しいと。
ある言葉との遭遇から思わぬ連想が膨らむのも読書の愉(たの)しみ。
絵本『宙(そら)からきた子どもたち』(絵・森ヒロコ)から。
『飛ぶのが怖い』はエリカ・ジョングの作品だった。
ずいぶん昔から、読もうと思って読んでない本。なのにタイトルが妙に記憶に残っている。
今回の「飛ぶ」は、鷲田清一風に言うと「俯瞰した視点に立つ」こと。
うん。確かに。全体を見渡すことは、高みに立たないとできないこと。
高みに立つと、思わぬところで足を取られたり、はしないので、泥にはまみれない。
日常は、同じ地平に立つから、何が何だか…と、「藪の中」。
芥川の『藪の中』は、盗賊と、襲われた夫と、襲われた妻の言い分が異なって、
いったい何が「真実」か、がまるでわからない、という小説だった。
「当事者」になるのは、いつだって苦しい。
苦しいから、高みに立とうとする。
けれど、そこからはもしかすると、「見えてこない」ものがあるのではないか? という鷲田清一の問いかけ。
私には、出来事の藪の中を這いずり回ることでしか見えてこないものがあるのでは? という問いかけに思えたのだ。
うん。確かに。
スマートに手際よく、ものごとを「処理」する中では、見えてこないことが多い。
側(はた)から見れば、「なんでそんな選択を」と思うようなことでも、
どんな思いで、その選択をしたのか、だとか。
そうとしか選びようがなかった…人の哀しさ、だとか。
それを知って何になる?
…どうしようもないことは、どうしようもない。
けれど、人に対するまなざしが優しくなる、かもしれない。
愚かな選択をしてしまった人にも、その人なりの「必然」を理解して、
ほんの少し、心を寄せてあげられる、かもしれない。
「どうしようもなかったのだ」という言葉は、時にいろんな事態への「免罪符」となる。
その時には、「どうしようもなかった」と、他に選択肢が浮かばなかったことを受け入れたとしても、
「本当に、そう?」という問いかけを持っていよう。
高みに立って俯瞰する視点を持ちながら、それでいて、「出来事の藪の中を歩く」。
多分…両方が必要である気がする。
画像は、今月初め、句会に向かう途中で目にしたイルミネーション。
奈良市、近鉄奈良駅からすぐの東向き通り、にある幼稚園、だった気がします。