2021年ファシリテーター集会が1月9日から始まりました。
今回はコロナ禍でオンラインでの開催。
最初に、日本ゲシュタルト療法学会の顧問でもあるアンセル・ウォルト博士の基調講演。
今回の集会のテーマは「Dialogue in the Darkー暗闇の中の対話ー」。
そのテーマに併せたミニワークも途中にあって。
目を閉じ、両手で自分の顔を覆って、「暗闇を体験する」ことをしました。
その後、二人ペアになって各自の部屋に分かれるのだけれど。
そこで私が語り出したのは、「長く暗闇の中で居られない私」でした。
シェアをしたときには、そのことについて、それほど深くは考えていなかったのだけど。
今思うと、そういえば、いつの頃からか眠るときに真っ暗にしない、できない、私がいて。
結構明るい、オレンジ色の光のスタンドを点けて眠る。
たとえば慈照尼宅で泊めてもらったときに、丁度の明るさがなかなか設定できなくて、困った記憶がある。
そのときは「え? なんで私、暗くできないの?」と疑問に思った。
けれど、どうしても真っ暗な中では眠れない、私がいて。
真っ暗にするよりは、少々明るめでもライトを点けたい私がいて。
…そのことに驚いた、という記憶。
暗闇に対する私の反応を見ていると、もしかすると、私は何か見たくないものがあるのかもしれない、と思う。
その後、ズームでのデモ・セッション。
ワーカーは、雪への愛着について語っていた。
なんとなく、もどかしいような感じで進んでいって。
何か雰囲気が変わり始めたのは、ファシリであるアンセルが、ワーカーの語る雪を評して
「coldではなく、cool」と言ったあたりから、のような気がする。
何か…ただただ冷たい、だけのコールドではなくて、カッコイイの意味もあるクール。
雪に対してワーカーとは同じ感覚を持つ人ばかりではないけれど(むしろ、異なった感覚を持つ人も多い中)、
少なくとも今は、ワーカーの感覚に寄り添う。一緒に居る。
するとワーカーの心がほどけてきて。
何か、ファシリと繋がった瞬間が訪れて。
ファシリをする、というのは、ファシリとしてそこに居るのではなく、
自分とは異なる感覚、感性に、どこまでも寄り添おうとする意思なのだと、そんな気がした。
午後からは、百武さんの講義。
昨秋に受けたズームでのワークショップと重なるところもあるけれど。
昨秋より、一層進化した説明を受けた気がした。
以下は、パワーポイントで提示された資料から。
ルビン:Edgar John Rubin(1886ー1951)デンマークの心理学者
① ある物が他の物を背景として明瞭に知覚される時、前者を図といい、背景に退くものを地という。
② 図と地は同時に意識できない。
図と地はいつも入れ替わる(のが自然な在り方)
赤字で書き加えたものが、パワーポイント資料になく、説明しながら言われた言葉。
現代の場の理論:マルコム・パレット博士 Malcolm Parlett.Ph.D
① 「場」は全体という概念があり、そこにいる人々と「今、ここ」の“空気”によって創られる。
② クライエントとファシリテーターが共同で創造する関係の場
③ グループでは、参加者とクライエントとファシリテーターが相互に場をつくる。
タリア・バーヨセフ・レビン博士2019
☆ゲシュタルトの哲学は3本の柱の上に立っている
1 現象学
2 対話の哲学
3 場の理論
三つの基本的立場(Malcolm Parlett.Ph.D)
1 今、ここでの気づきを大切にする 現象学
2 ClとThの直接の関係をワークの中心にすえる 対話
3 有機体(人)と環境(自分以外の世界)の交流が「場」を定義づける 場の理論
M・Buber(ユダヤ教の神学者)の哲学 Gay Yontef Ph,D
接触を通じて人々は成長し、アイデンティティを形成する。
接触とは「私」と「私でない」の境界の体験である。
M・Buber(1878ー1965)
人は他者との関係において
「IーThou」(対話)または「IーIt」(操作的な接触)に意味を持つ。
※「我ー汝」(対話)
「我ーそれ」(操作的な接触)
ブーバーの「我ー汝」「我ーそれ」は二者択一的に捉えるものではなくて、両方の関係性が必要であるとヨンテフは言っている、という。
ここで、百武さんは「もしかするとマルクスの資本論の影響を受けて、『搾取する、される』関係としての「我ーそれ」がイメージされたかもしれない」と言われていた。
うーん。同時代的な影響も考慮に入れなければならない、視点が加味された。
夕方17時から19時は、マルコム・パーレットさんの講義(及びデモセッション)。
「Gestalt after Fritz」と題して、「フリッツの後のゲシュタルトー原点回帰、コンテンポラリー・ゲシュタルトの発見ー」について話された。
「ダンスのコーチとコーチを受ける人」との関係を例に、「対話」の説明がなされた。
それは、「相互作用」であり、そうして生まれた「ダンス」そのものからもコーチもコーチを受ける人も、影響を受ける、と。
Support is “that which enables” (サポートとは“何かを可能にするもの”)
Feeling support is the antithesis to feeling shamed (サポートされている感覚とは、恥を感じることと真逆のこと)
「恥を感じることと真逆のこと」に対して質問があって、
どんなリスクのある状況でも、安心、安全を感じられる状態である、という説明が加えられたように記憶しています。
豊かな、長い1日が終わりました。
画像は2021年元旦の夜明け。
「暗闇の中の対話」ってまさしくコロナ禍での開催に相応しいテーマである気はするけれど、
人との「対話」を成立させるのはいつでも「暗闇」から始まる気がして。
それは、手探りででも、夜明けを迎えようとする、光のある方向へ向かおうとする意思の表れなのではないか、という気がします。