月に一度の、櫻井詢晃さん主催の『ブッダの<呼吸>の瞑想』お茶会。
今月は、「今日の気分のカード一枚引き」から始まり、
私が持ち込んだ「チョコレート」による瞑想に移って。
何? その「チョコレート瞑想」って?
いえいえ、ちゃんと瞑想の一つにあるのです。
ほんの少量の食べ物を口にして、ゆっくりと味わいながら、というの。
…まあ、それはご飯粒だったり、でチョコレートではないのですけれど。
ま、チョコレートでもいいんだよね? と、勝手に。
3種類のチョコを口にしたのですけれど、
それぞれ、テイストが違って。
ブルーのアンジェは軽やかに、羽ばたく感じ。
もうひと種類は、重厚でズンと大地に根付く感じ。
さらに。もうひと種類は、スッと爽やかに引く感じ。
うーん。チョコも奥深いなあと思ったことでした。
それで。
味覚の喜びに浸った私たちは、エクササイズ4「喜びと幸福から糧を得る」を読むことにしました。
五 息を吸いながら、喜びを感じる。息を吐きながら、喜びを感じる。
六 息を吸いながら、幸福を感じる。息を吐きながら、幸福を感じる。(p.124)
ブッダの説いた「呼吸による完全な気づきの経典」での「十六の呼吸による気づきの瞑想」を最初に読んだとき、私は五と六の違いがわからなかった。
今回、それについての解説箇所を引用します。
西洋では、喜びはしばしば興奮という言葉を伴います。
ブッダは喜びと幸福とは違うと説きました。
きっかけとしての喜びは欠かせませんが、幸福感が高まるにつれ、喜びに伴う高揚は薄れていきます。(p.128)
ブッダは喜びをおとしめているわけではありません。
喜びは何より必要なのですが、それは超えていかなければならないのです。(p.128)
たとえば、この瞬間に存在する幸福の理由を、ひとつ拾い上げて書きだしてみてください。
それほど苦労しなくても、紙一枚が埋まってしまうことに驚くでしょう。
坐る瞑想でも、歩く瞑想でも、洗濯、調理、掃除など何をしていても、自らに問いかけてみましょう。
「今、幸福でいられる理由は何だろう?」と。
それを見つけたら、書きとめておきましょう。
法華経にこう書かれています。
計り知れない価値のあるたくさんの宝石を、私たちは受け取っている。
それなのになぜ、貧しい子どものようにさ迷うのかと。
瞑想を深めたいなら、喜びや幸せを「まぎれもなく体験」することです。(p.129)
ブッダは、快、不快、中性それぞれの感覚を深く観るよう説きました。
中性とは、快でも不快でもない感覚です。
歯が痛むときには不快です。
しかし歯が痛まないときには、とくに歯痛がないからと喜ぶこともありません。
歯痛がないことは、中性の感覚だと考えられます。
歯が痛くなったとき、私たちは初めて、歯痛がないことが本当にすばらしいと気づくのです。
目が不自由にならないと、青い空や白い雲を見るための目があることが奇跡だと気づきません。
見えているときには、めったにそのことがわからないのです。
見えるのが当たり前(中性)だという考えがあるからです。(p.130)
瞑想によって、当たり前と思われている中性の感覚を、健全で長続きのする心地良い「快」へと変えていくことができます。
瞑想は、何が苦痛で何がすばらしいかを見分ける眼を養います。(p.131)
「喜び」は瞬間、興奮を伴うほどの高揚をもたらすが、長続きしない。
また、「刺激」を求めて、外部から「喜び」をもたらされことを期待し始めるかもしれない。
そうなると、依存を生む。
それより。長続きする「幸福」を生み出すこと。
…なるほど。
それも、当たり前と思っていて、快でも不快でもなかった「中性」から「快」を見いだすこと。
心穏やかに、満たされる感覚を培うこと。
人生に意味などなく、意味を求めても無駄だという人もいます。
人生の歩みに意義を見出せなければ、それは苦痛以外の何ものでもありません。
目指す方向がわからないのは不幸です。
どんなに富や権力に恵まれていても、迷いは苦しみを生みます。
人生に方向を持ち、そこに意味を見出し、思いやりを実践できれば、自分や周囲の人々の苦しみをやわらげる道が見えるでしょう。(p132)
ああ、そうだ。素直に受け入れられる。
「今、幸福でいられる理由は何だろう?」
その問いを、日常で、できるだけ発してみようと思う。