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五蘊はどれも独立した実体ではない〜浅田慈照尼と読む『ティク・ナット・ハンの般若心経』(7)〜

2021/06/08
五蘊はどれも独立した実体ではない〜浅田慈照尼と読む『ティク・ナット・ハンの般若心経』(7)〜
5月28日。土砂降りの雨が上がった午後。
「第十章 名前の中に何がある?ー仮名(けみよう)」を読む。

ゆえに空において、体、感覚、認知、心の形成、意識は、独立した実体ではない。

是故空中無色 無受想行識

インタービーイング(相互存在)のすばらしき体現としての体(色しき)は、私たちが頭の中で考えている、身体についての考えとはかなり異なります。

五蘊(ごうん)も同様です。ーーー五つのそれぞれの蘊(かたまり)は、宇宙がまるごとあらわれたものです。(p. 115)

初っ端に。「体」を「からだ」と読むのか「たい」と読むのか、で、立ち止まる。
…詢晃さんのところの「仏陀の呼吸の瞑想 ゆるゆるお茶会」で、「体」と「身体」の二つの表記が出てきて、
この二者は区別されて使われているのか、が気になり、訳者の島田啓介さんに問い合わせた。

先日、エクササイズ3を読み合わせていて、「身体」という表記をからだと読んでいたのですが、「体」という表記も併せて出てくることに気づき、二者は異なった言葉の異った訳語なのかどうか、気になりました。ご教授いただけたら幸いです。

それは、4月10日のこと。

「ご連絡ありがとうございます。読書会が広がっていくのは嬉しいです。おたずねの件、調べてみますね。少し時間をください。またご連絡します」とすぐさま返事がきて。

でもまあ、それっきり。お忙しいのかもしれないけど。

 

慈照さんから、それは「たい」と読むのがいいのだ、と。色(しき)の訳語として。

だから、「身体」も「からだ」ではなく、「しんたい」と読むのがいい、と。

物理的な肉体のみを指す語として。

「からだ」では、指す範疇が曖昧になる、という理由で。

 

そうなんだ! と2ヶ月間抱えていた疑問が解ける。

きちんとした説明とともに、問題が解決するのはとても嬉しい。

それから、「五つのそれぞれの蘊」の説明として、直後に(かたまり)との表記があったけど、
これは「集まり」の方がいいのではないか、とのご指摘。
…そうか。「かたまり」とすると、なにか、一体になって作用するように思えてしまう、確かに。


伝統的な般若心経の経文には、よく知られているように、仏教の根本となる教えを否定する一連の表現があります。
五蘊、十二縁起、十八界、四聖諦(ししょうたい)などがその対象です。
従来、般若心経では、五蘊につて次のように説いてきました。
「ゆえに、空(くう)の中には……形はない、感覚もない、認知もない、心の形成もない、意識もない」。
しかし、このような表現のために、幾世代もの修行者たちが空の教えを誤解することになり、五蘊は存在しないと考えてしまったのです。
そのように考えた彼らは、虚無主義(ニヒリズム)に陥ってしまいました。

本書の新訳では、できるだけ誤解を引き起こさないようにするため、「五蘊はどれも独立した実体ではない」と明記する表現にさしかえました。
体をはじめとする五蘊は存在しないのではなくて、「私」とか「自己」として認識できるような独立した実体として存在しているのではない、ということです。
それひとつだけ分離して独立した本体であるかのような実体は存在しないのです。
にもかかわらず、私たちはどうしても、それらは存在すると信じてしまいます。
でも私たちが、「私が」とか「私のもの」とか「私自身」だと思ってしがみついている独立した実体は、実は幻想なのです。(pp.116-117)


五蘊は存在しないのではなく、独立した実体ではない。
私の感覚も、私の考えも、どこまで、「私」独自のものか、というと、甚だ心許ない。
どこかで何か、聞きかじったり、影響を受けたり。「これを甘酸っぱいというのか」と学習したり。
これも、暫定的に「私」としているもの、に過ぎないのかもしれない。

「四聖諦」につまずいて。「四聖諦?」と顔を上げると、
「苦集滅道」のこと、とのお答えが返りました。…すみません、習ったのに、身についてなくて。


<仮名>
身体を「体(からだ)」と呼ぶとき、私たちは現実に対して名札を貼っています。
その言葉は、指定して、名づけた」名称で、便宜的なものです。
そのように呼ぶことで一致うしてはいますが、実際には、名札自体は体そのものではありません。それはちょうど、地図が本物の領土ではないのと同じことです。

私たちの日常の会話の中で、あなたとか、私とか、富士山とか、ピレネー山脈などについて話します。
ブッダ自身も、人やものを名前で呼びました。
弟子の一人に向かって、「アーナンダよ、私と一緒に霊鷲山(りょうじゅせん)を登らないか?」とか、「シャーリプトラ、僧たちが托鉢に出る用意をしておくれ」と言ったことでしょう。しかしブッダはそのような言葉にとらわれずに、それらの言葉を使ったのです。
独立した実体が、実体のない(無我)要素の無数の寄せ集めによって成り立っていることをわかっているのです。
そしてその名前を手放して、空の真理にとどまることもできます。これが「仮名(けみょう)」の教えです。(pp.117-118)


一見、何の問題もなく読み過ごしてしまうところだけれど。
慈照尼は、ブッダの言葉がけの例に、違和感があると言われる。
霊鷲山とは、ブッダが説教をしに行くところ。そこに一緒についていくのは知恵第一の舎利弗、つまり、シャーリプトラだった、はず。
逆に、ブッダの身の回りのお世話をしていたアーナンダに、僧たちが托鉢に出る用意を頼むのが、常だった、はず。
それをよくわかっていて、ティク・ナット・ハンさんは、それを入れ替えるような表現をして、「仮名」を説明した。
しかし、そこに「入れ替え」が生じるだろうか? 実際に。というのが慈照尼のご指摘。
うーん。確かに。シャーリプトラ、という名称が便宜的なものであったとしても、その意味するところは、その人、を指定する。
ここで、「入れ替える必要があったの?」との疑問が残ることに同意する。


<とうもろこしの苗>
みなさんの中には、自分の父親や母親はもう死んでしまったと思っている人もいるかもしれませんが、じつは私たちの中に生きています。
体の細胞の一つひとつに入っている両親と交流することができます。
あなたの中にいる、お父さんとお母さんに話しかけられるのです。
あなたにとって見慣れた姿の両親ではなくても、親子で会話することはいつでも可能です。
あなたが好きだった人を、あなたの見慣れた姿で見ることはできないからといって、そこに存在していないわけではないのです。


遺伝子、染色体の話が入ってくる。しかしこれは、ティク・ナット・ハンさんの価値観ではないか、と慈照尼は言われる。
仏陀、お釈迦さんの話ではない、と。

仏陀の生きた時代、インドでは息子が生まれないと家が絶えると考えた。
家が絶えるというのは、今のような「子孫が絶える」という意味ではなくて、祖先を祀る人がいなくなる、という意味で。
そういった背景を考えると、染色体の繋がりで、自分の中に両親が生きている、という考え方は、仏陀の中にない、と。

なるほどなあ…と思う。
何にしても、そうだけど。
原点はどうか、この人の解釈はどうか、を明確にする必要があるということ。
ティク・ナット・ハンさんでさえ!
まあそれが、偶像崇拝に陥らないために必要なことなんだろう。

しみじみと感じ入って、この章を終えました。

画像は、5月半ばに作ったフラワーアレンジメント。
ちょっとルームに置きたくなって、持ってきたときに撮ったもの。
今朝方、その残骸を処分して。ああ、美しく咲いていた、と思い起こされたので。

<追記>
コラムを慈照尼にお見せしたら、「祖先を祀る」ということについて、詳しい説明をいただきました。

日本では子どもがいないと、「祖先を祀る人が絶える」つまり、継承の人(生きてる人)に視点がありますが、

インド人は昇天先の方が長いので、功徳が尽きると落っこちる不安も含め、天にいる方の視点で考えます。


男児サイドの、今生きてる人はどうでもよくて、「死んで天にいる私たちを祀る」人材が必要という考えです。

日本人は子孫が祀ってあげるから、男児がいなかったら婿養子でも代替えが利く、と考えます。現世での、祀る人の視点で考えるので。


でもインドでは、祀る側でなく、天にいる側で物事を動かしていくという考え方をするので、男児でないとダメだというルール。

未来の代々続く人に重きを置く、「子孫繁栄」の方が良いよね、というような日本人発想はありません。

バトンは、過去に向かって投げるもので、未来に託す考えがないのです。


ラーフラが、子どもを残さずに(童貞のまま=童真と言ったりする)出家したので、父殺しと言われる。

父親である釈尊が生きてるのに!

日本人の先祖供養は、子どもたち(複数人可)が先祖を祀って、先祖は「お陰(徳)」を子孫にもたらす。

インドは死んだ過去に人が徳を得るためにだけ、男児の継承を気にする。

 

しかし、男児として生まれた(送り出された)ことが徳であるから、お陰はもう受け取っている、と考える。

日本の長子相続のような考えだと、例えば結婚して男児が出来ず戻ってきた姉妹を、兄(弟)が亡き父の如くに面倒を見るのも、結婚時の持参金の問題も、当たり前のこと。

しかしインドでは、男児の継承権は、この世の今の問題を先祖は知ったこっちゃない。

男児が産まれた瞬間に、父親は死んだら昇天できる! 死んでる先祖に顔が立つ! ということです。

 

ここで問題になるのが母親。夫(主人、旦那さん)にくっ付いていたら昇天できるので、夫が亡くなった火葬の火に飛び込める。

インド人を中国人が理解できない点です。

私たちも儒教文化圏にいるので、昇天第一主義の人生・死生観が分かりにくいですが、釈尊にとっては、普通のこと。

 

だから釈尊は、自業自得を必死で説かれたんだと思う。

自分の行いだけが、先の未来を決定する。子や主人や親族の祀り様ではなく。

それには、すごいバッシングあったんだと思う。

本人はラーフラを生んでいるけど、ラーフラへの風当たりは強かったと思われます。

でも、釈尊はラーフラを舎利弗に預けている、ということは、ラーフラは知性派だったと考えられます。だから、周りの価値観を何とも思わなかったかもしれません。

あくまでも想像ですが。

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