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  1. コラム
  2. 沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム
  3. ゲシュタルト療法
  4. うつるとも 月もおもはず うつすとも 水もおもはぬ さる沢の池〜陣内裕輔さんのオンラインセミナー「禅とゲシュタルト」〜
 

うつるとも 月もおもはず うつすとも 水もおもはぬ さる沢の池〜陣内裕輔さんのオンラインセミナー「禅とゲシュタルト」〜

2021/06/20
うつるとも 月もおもはず うつすとも 水もおもはぬ さる沢の池〜陣内裕輔さんのオンラインセミナー「禅とゲシュタルト」〜
この前のレズニック博士のオンラインセミナーのあと。
主催者の陣内さんが、オンラインセミナーをされる、というので早速申し込みました。
なんでも、今年の4月13日に、ブラジルのゲシュタルトセラピストとの交流会で、「サトリとゲシュタルト」というテーマで講演された、とか。
その時のお話に、実際の坐禅を加えた内容、というので。
とても楽しみにしていました。

事前に示された案内は次のとおり。

▽ 目的:ゲシュタルトが禅から受けた影響について学ぶ
     ・ゲシュタルトの理論ー現象学、実存主義、場の理論、“我と汝”と禅仏教理論の関係
     ・なぜゲシュタルトのワークをやる人が、坐禅をしたほうがいいのか(その逆も)
     ・セラピーの現場で、禅をどう活かすか

▽ プログラム
  ・レクチャー
  ・坐禅ー呼吸瞑想の実践
  ・実験ー坐禅が対話にどう影響するか
  ・ディスカッション

最初のレクチャーでは、「禅とゲシュタルト」と題した、次のスライドが示されて。

☆ 禅とゲシュタルト
 ・無目的的であること
 ・不作為の作為
 ・矛盾を矛盾のままにする
 ・“人” 
 ・対話

4つ目の“人”とは、「概念」でもなく「コンセプト」でもなく、と対比概念を提示されたのが、わかりやすかった。
特に心に残ったのは、5つ目の「対話」。
「禅は、『問い』と「問うている人』を分離しない」と言われたのが、興味深くて。
問うた人に対して、逆に問いを引き出す。「おまえは誰なのだ?」と。

一連のレクチャーを受けて、私が感じたのは「学び」と似ているなあ、ということ。

「学ぶ」ということは、もちろん、何かの「目的」、学びたいことがあるから学ぶのだけど、
Aを知りたい、ということでAのことを知る、というのは、予定されたもの以上の「学び」はない、ということ。
「学び」の奥深さは、自分が知り得ない、自分の知の枠組みを外されるような体験がある、ということ。
それを手にするには、「目的」を明確に設定しないことが肝心。
当面の「目的」はAのことを知りたい、でも構わないのだけれど、それを探りながら、今の自分では知り得ない枠組み、パラダイムシフトを起こすようなものに出会っても、拒否せずにいられる精神性が必要であるように思う。

世界の見え方が変わるようなパラダイムシフトに出会っても、何も怯える必要はない。
それは。たぶん、私をより自由にするものだから。
「今まで、何だったの?」と思う必要もない。
私とは、「成長する存在」なのだから。

日本人は人前で自分の意見を言うのをためらう、人が多い。
それは、「自分の意見を否定されると、自分が否定されたように感じる」から。

現代文の授業で、そのクラスのメンバーの意見を引き出していくために、最初の授業で私はこんなふうに言った。ことを思い出す。
「人の意見に対して、それは違う、と言うことは、何も、その意見を言った人を否定することではありません。
その人に対して、ではなく、その意見に対して、私はそうは思わない、というだけだから。
同時に、自分の意見は変えていい。◯○さんの意見を聞いて、私はこんなふうに自分の意見を変えます。それはOK。ただし、きちんと理由を付けて。
何も、最初の自分の意見と『心中』しなくていい。なぜなら、人は成長する存在だから。」

そんな風に、毎年、年度当初の授業で言い続けた。

それを、自分の中で行ってもいい。「私は成長する存在だから」と。

…そんなことが、走馬灯のように過った。
「学び」とは、私にとって、「自分の枠組みを変えること」。

確か、内田樹も言っていたように思う。「学びとは、自分が予測していたことを担保するものではない」「むしろ、自分の予測を超えないものは学びではない」「今の教育が『学び』から遠ざかっているのは、『学び』を、享受するサービスとして考えるからだ。その発想は『消費者』の持つもの」…正確には覚えていないのだけれど。


☆ 禅と剣・武士道ー「水月」
   「うつるとも 月もおもはず うつすとも 水もおもはぬ さる沢の池」 柳生石舟斎

  ・多くの日本古武術の最終奥義
  ・月夜には、水のあるところではどんなところでも、月がそのままの状態で水面に映る。
  ・無心の大切さを表した言葉
  ・水は“無心”に月を映し、月は“無心”に水に映る

柳生石舟斎(1529ー1606)とは、柳生新陰流開祖だそうです。

猿沢池か…と思ってしまいました。
確か、「巫女(うぬめ)祭り」では、小舟を出すような。
本当に、小さい池、なんだけど。
8月には櫓(やぐら)を組んで、池の周りには屋台が出て。子どもの頃は浴衣を着て、「盆踊り」を踊りました。
今でもある、と思う。コロナ禍で、中止かもしれないけれど。


☆ 禅と俳句
  「古池や 蛙(かわづ)飛び込む 水のおと」  芭蕉

松尾芭蕉(1644ー1694)。言わずと知れた俳諧の人。
茨城県鹿島 根本寺住職の仏頂和尚に師事した、という。
その仏頂和尚とのやりとり。

仏頂和尚「近日 何の得る処ぞ」
芭蕉  「雨過ぎて 青苔洗う」
仏頂和尚「如何なるか 青苔未生以前の仏法」
芭蕉  「蛙飛び込む 水のおと」

というやりとりがあって、「古池や 蛙(かわづ)飛び込む 水のおと」の句が生まれた、とのこと。

ふうん。知らなかった。
「近ごろ、何を得たか?」と師に問われ、「雨が降ったあとの、雨に洗われて青々とした苔」だと芭蕉は答える。
さらに「青々とした苔以前の仏法は どんなものか」と問われ、「蛙が池に飛び込む時の水の音(である)」と答える。

目の前の青々とした苔、に対して、以前の仏法、とは目の前にないもの。
それを敢えて問うて、今の芭蕉のありようを確認する。
芭蕉は目の前にカエルを見たわけでなく、「水の音」で、その存在を知る。
けれど、その「水の音」は「今ここ」でのものであり、そして、目にせずとも、充分にその存在が確認できる。
仏法も。以前のものは目にせずとも、その存在は、確かに「ある」。

そういったところ、か。

まあ、陣内さんに質問して確認したら、肯ってもらえたので。


坐禅体験は…私はちょっと上手くいかなかった。
昨日は4時から起きてたこともあって。
息を整えると、ついうと、としてしまって。

でも、悟りはその寝入る直前の瞬間や瞑想から出てくる瞬間、といった「変わり目」に起こる、と言われたことに、へえーと思った。
…そうか。さなか(=三昧)ではないんだな。
完全に寝ていたら、これは意識が飛んでいるのでダメなのだけど、
半分寝ていて、寝ていない状態、「無意識」が働く状態、で悟りが生まれる、というのは、面白いなあと思った。

瞬間を捕まえないといけない、というのは。
なんでもそうかもしれない。
あ、と思うことは「瞬時」なので。

とても刺激的な時間でした。
でも、私が知りたかった「坐禅が対話にどう影響するか」まで行けなかったので。
陣内さん、続きのセミナー、期待しています。

画像は、昨秋の日が沈んだあとの興福寺五重塔。手前が猿沢池。

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