「つっつん、久しぶりだね。」そんな会話から始まって。
つい1週間前に、ももちゃん(百武正嗣氏)の「夢のワーク」を受けに心斎橋まで行ったこと。
リアルのワークは久しぶりで、なんだかとても嬉しかったこと、を話した。
ゲシュタルトのベーシックコースのときには、毎回ファシリテーターが異なることが新鮮で嬉しかった。
でも、2年目のアドバンスコースでは、ファシリによって「この人は受けたいけど、この人は…」という違いが出てきた。
それで、3年目に「再受講」は考えなくて、その後の3年は単発ワークで来たこと。
コースを終えてからもう3年が経って、1週間前のももちゃんワークで、「ここで終了」という「ワークの終わり」が見えた。
それで、今年の11月から始まるゲシュタルトのコース再受講を決めたのは、タイミング的に間違ってなかった気がした。
…たぶん、次のステップが必要な時期、のような気がしたから。
つっつんに「不遜だと思うんだけどね、」と前置きして。
「年齢で全て決まるわけではないんだけど、でもなんというか…私より人生経験が浅い人の前に座っても、何か、わかってもらえない気がして。
それで、ね。この人のファシリは受けたいけど、この人はそれほどでも、が出てきた。
そういった人生経験の深さによる峻別はある意味、避けようもない気がするのだけれど、でもね、ここに至って、『もしファシリに、(ワーカーに比べ)そういった人生経験の深さがない場合でもワークが成り立つとしたら、それはどういったことが要因なのだろう?』が気になって。」
私は、つっつんにわかってもらえるかどうか、少し危ぶみながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「思い上がり」と受け取られかねないことを、そうなってほしくない一心で。
「うん、わかるよ。」とつっつんは応える。
その応答で、無理なく彼が「分かって」くれているのを感じる。
…これは何だろう…。掛け値なしにそういったことは瞬時に「分かって」しまう、ということは。
怖いぐらい、人は「感じとる」ものなんだ…と思う。
画像は11月1日朝、5時49分の生駒駅周辺。
朝、5時にアンジーの散歩に出かけ、母のところに預けて、さらの散歩のために急ぎ家に帰る途中で撮ったもの。
…アンジーが、さらをなかなか受け入れ難い、状況は変わらず。まこさんのルームを一通り見た後、まこさんの近況や今回のセッションを申し込んだ動機を聞いた。
ルームに色々な人が集ってほしい。ファシリテーターに対峙した時に、自分の中に何が起こるんだろう。ここ最近の交友関係でショックなことがあった。……
——すでにまこさんの中には様々なことが起きているようだった。余計な言葉はいらない。〈じゃあ、やろうか〉と、早速セッションを始めることにした。
最初に、お互いの座る位置を確かめた。
〈どこに座りたい? どこにいると落ち着くかなぁ〉
フォーカシングでは“感じる”ことを大事にしている。セッションを始める前に、このように座る位置を確認することは“感じる”の導入としてフォーカシング・セッションでよく用いられている。
まこさんは場所を確認し、壁にもたれられる位置に座った。
〈座っているこの感じを、味わってみましょう。身体を動かしてもいいよ〉
そう伝えると、まこさんはしばらくからだを揺らした後、周りを眺めていた。
「ここから眺めたことはなかったかも」
いつもと座る場所が違うと、景色も変わるものである。引っ越して1か月余りとのことだったので、きっとこの景色とも出会うのは初めてだったのだろう。
私にとっては、置いてあるものも非常に興味深いものであった。見えるものを伝えると、そのものについてのまこさんのエピソードが語られた。新しい場所でありながら、歴史を感じた。
しばらく、この景色を一緒に眺めながら楽しんで、語り合った。
ひと段落したところで、セッションが始まった。
フォーカシング・セッションの流れは、一般的にはジェンドリンが著書『フォーカシング』で紹介している6ステップの「ショートフォーム」と呼ばれるものがある。もちろん、そうした型にこだわらず、リスニング(傾聴)していく中でフェルトセンスを誘ったり問いかけを行ったりといった、フォーカシングのエッセンスを加えることでもセッションを進めることもできる。
どのように進めていきたいかフォーカサー(クライエント役、話し手でありフォーカシングをする人)に確認することを、私のセッションではよく確認しているような気がする。
今回も、それを確認するべきかと思っていたが、まこさんの方から早速、交友関係のことが語られたため、その流れに沿って聴いていくことにした。
ひとりの友人のこと、別の友人とのできごと、40年以上付き合いのある人とのことという、3つのできごとが語られる。
ショートフォームでは、まず第1ステップとして「クリアリング・ア・スペース」から始まる。日本では「こころの空間づくり」とも訳されていたこともあるが、いろいろな出来事や悩み事で散らかったこころの空間を整理整頓していくことを指す。これによって、セッションで取り扱いたい1つの事柄に集中することができるのである。
3つのできごとを個別に取り上げることも考えられたが、まこさんがこれらのできごとを今ここで語っていることには、何らかの意味が感じられる気がした。
そこで、〈この3つのできごとに共通しているものってあるだろうか?〉と問うてみた。
すると、「尊重されていない」という言葉が生まれた。
“あぁ、そうだったんだ”という私の実感とともに、〈尊重されていない〉というこのキーワードをリフレクションした。
リスニングにおいては、このリフレクションが重要である。フォーカサーが語ったことを、リスナー(聴き手)がこのように伝え返すことで、その言葉がフォーカサーに再帰し、吟味することが可能になるのである。
私は、もっとその“尊重されていない”感覚を知りたくなった。
そこで〈最初の人のことを考えたときに、からだではどんな感じがする?〉と尋ねた。
状況を言葉で語るのは容易ではあるだろう。しかし、どれだけ語っても語りつくせないというものが“悩み”の本質ではないだろうか。フォーカシングであれゲシュタルト療法であれ、人間性心理学では内容よりも“実感”そのものを大事にする。
まこさんは、胸の辺りに何かを感じており、両手で挟むようにして「キュッとする感じ」と言葉にした。
私は、それに興味が湧いた。〈キュッとする感じ〉と、言葉にしながら同じように手の動作を試してみて、その感じを味わう。
こうした表現のことを、フォーカシングでは“ハンドル handle”と呼んでいる。できごとについてのフェルトセンスが感じられたら(ショートフォームの第2ステップ)、そのフェルトセンスを言い表すハンドル表現を探してみる(第3ステップ)。そして、その表現でぴったりかどうか、確かめてみる(第4ステップ;響かせる resonating)。
〈キュッとする、という表現でぴったり? それは押さえつけているような感じ?〉など、私自身もより正確に感じられるようにするために、確認する。
まこさんには、両端から圧力がかかって、狭められるような感じを感じている。“キュッ”という表現がぴったりしているようである。
そこで私は、問いかけ(第5ステップ;Asking)を試みたくなった。精緻なフェルトセンスは、フォーカサーにとって必要なメッセージをもたらしてくれることがある。
〈キュッには、何が必要なんだろう?〉
そうすると、まこさんは狭まった場所を両手で押し広げるようにして「開きたい、そう、開きたい!」と話した。手の開く力と“開きたい”には、エネルギーが詰まっていた。
「ずっと、こうやってきた」「(こうして開くありようが)私らしい」こんな言葉が次々に紡がれていった。
こうした馴染みの自分が立ち現れてきたところで、また私には新たな興味が湧いてきた。“ずっと、こうやってきた”自分のエネルギーを今ここで感じると、どうなるのだろうか。
ゲシュタルト療法では、過去に体験したことが今なお生じているのであれば、それを「今—ここ」で再体験することを進めている。これによって、ワーカー(クライエント役、ワークをする人)が自身の本来持っているエネルギーを再確認することができ、エンパワーメントにつながるのである。
私もまこさんも、こうした前提の理解があるので、過去の自分を扱うことには抵抗はない。しかし、ここはフォーカシング・セッションの場である。すっかりフォーカシング・モードの私には、別の道筋が見えていた。観我フォーカシングである。
観我フォーカシングは、私の師匠であり世界にフォーカシングの真髄を伝え続けている池見陽先生が考案したワークである。池見先生ご自身の瞑想体験から生まれたワークであり、仏教的なエッセンスが入っていることも特徴である。
私はまこさんに、こんなふうに問いかけてみた。〈そんな自分って、何歳くらいなんだろう? イメージで良いんだけど、どんな格好をしていて、どんなふうにしてそこにいるんだろう?〉
まこさんは、2〜3歳頃に七五三の時に着物を着ている自分を想像する。観我フォーカシングでは、その当時の自分を鮮明に思い出すのではなく、今の自分にピッタリくる自分のありようをイメージしてもらう。〈どんな表情をしている?〉と問うてみると、どうやら口はへの字であり、イヤだということを(着物の裾で隠れて見えない)右足首を曲げて表現しているようであった。これは、とてもぴったりきているようだ。
さらにまこさんは、幼少期から親から要求されてきたことを語った。それは、自分の進む道をキュッと狭められているかのように感じていた。だからこそ、それを両手で払いのけて生き進んでいくことが必要だったのだ。
私は、そうしたまこさんの体験を追体験しており(イメージとともに立ち現れてくる理解が生じており)、その小さなまこさんが今のまこさんの土台を支えてくれているのだと感じた。
〈そんな小さい頃の自分に、感謝しましょう。あなたがいてくれてありがとう、と〉
これは観我フォーカシングのステップである。それに私の追体験を付け加える。
〈あなたがいてくれたから、こんなふうに道を開いて生き進むことができている〉
セッションで言葉にしたかは分からないが、道を切り開いて生きてきたからこそ、こんなふうに自分一人の力でルームを作ることができている。
これまでのセッションの流れは、ショートフォームのステップと同じようなプロセスになった。
問いかけと観我フォーカシングによって、自分は道を切り開いて生きてきたん“だった”(ということに今気づいた)という理解が生じた。フォーカシングによって出てきたものは何であれ“受け取る”作業が大切だ(第6ステップ;receiving)。
受け取った時点で、ある程度すっきりしていればセッションは終了となる。しかし、まこさんはまだ話したいようだった。最初に語られた3つのできごとについては十分に触れてきていないので、当然であろう。私も、これまでの気づきを主題である3つのできごとに還元できるか確かめたかったところである。それに、人間は自分にとって必要なことをする生き物である。今のまこさんにとっては、話すことが必要なのだろう。私はそれに静かに耳を傾ける。セッションの後半は、リスニングを中心としたプロセスになった。
一人目とのこと、二人目とのことを語る中で、「あなたのために」という言葉が引っかかるということが明らかになっていった。それは、両親から何度も向けられた言葉だったのだろう。三人目からは、尊重されていない感じがしていたようだった。
このような人間関係であっても、まこさんは人と出会ってみたかったのだろう。「自分の境界線より内側まで入ってきたとしても、しばらく様子を見ていた」ということが語られた。
〈この境界線には、何が必要だろう?〉
じっくり話を聴いていた私は、フォーカシング的な問いかけをしたくなった。“境界線”と聞くと、ゲシュタルト療法で言うところの“境界 boundary”が想起される。ゲシュタルトの祈りにも「あなたはあなた、私は私」という言葉があるし、ワーカーが相手と自分の間に境界線を自分で引くことによってエンパワーされたワークも見てきた。しかし、まこさんにとっては、また違ったものが必要になるかもしれない。
しばらく沈黙があり、私の理解を伝えたくなった。
〈まあ、優しい人ばかりじゃないからね〉
周りの人がすべて、境界線を侵入しない人たちであれば、このような苦労はないだろうが、現実にはそんな人たちばかりでもないし、これからも出会っていく可能性もあるだろう。
そんな言葉を伝えると、まこさんから確固たる信念のようなものが語られた。
優しいかどうかというよりも、自分の感覚を絶対視しないことが必要なのだと。この話題は、これまで私が学んできたフォーカシングやリスニングの理念にも共通するものがある。
そして、まこさんはやはり人と出会っていきたい、対話したいと願っている。だからこそ、この境界線のありようは変えたくないのである。
人を迎え入れる——これはまこさんのルームの理念とも通じると思った。
そして、二人目のできごとがあったからこそ、一人目の人にコンタクトをとろうと思った。結局は、分かってもらえなかったようであるが。〈でも、後悔はしていないよね?〉私は自然と口にしていた。まこさんも、頷いた。ショックは大きかったけれども、この3つのできごとについては後悔はしていない。
「でも」と、まこさんは続けた。「その人たちと手を離すことで、また新しい人たちと手をつなぐことができるようになる」
私も、自分の理解を言葉にする。〈そうね。この(3人の)人たちと手をつなぎ続けることは執着することになるよね。でも、その手を離せば、また新しい人たちと出会っていけるよね〉
まこさんにとっても、このことは大事な気づきであったようであった。ここまでの気づきを整理しつつ、今回のセッションは終了となった。カウンセリングルーム 沙羅Sara
あなたはあなたのままで大丈夫。ひとりで悩みを抱え込まないで。
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所在地 : 生駒市元町2-4-20
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