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ゲシュタルトセラピー ワークについての覚え書き(1)〜感覚(身体)と思考の境目〜

2021/11/18
ゲシュタルトセラピー ワークについての覚え書き(1)〜感覚(身体)と思考の境目〜
ゲシュタルト療法・百武正嗣さんのワークショップに参加したときに、フッサール現象学がご専門の三村尚彦先生が来られて。
それは、主催者がお呼びした、ということで。

関西大学にお勤めで、フォーカシングの池見陽さんの同僚。

フォーカシング創始者ジェンドリンについて話された言葉を拾っていきます。


・池見先生との関係から、2008年ぐらいからジェンドリンについて調べ始めた。
・ジェンドリンという人は、圧倒的にフォーカシングという業績でアメリカの心理学会からも高く評価されている方だが、ご本人は一貫して「自分は哲学者だ」とかなり強く言っていた、と聞いている。
・実際、彼の業績も、単純に数だけ比べれば、哲学の論文の方が多い。
・多くの人は皆、ジェンドリンのフォーカシング指向心理療法(=フォーカシング)が素晴らしいので、ジェンドリンという人は、著名なロジャース派の心理療法家だという認識をしている。
・僕自身は、彼の哲学が、フォーカシングという業績から切り離しても、十分なポテンシャルとか可能性を持っている、と思っている。
・なかなか哲学の人間は、心理学の人が言っているのだったら哲学の応用だよね、という感じで、あまりその哲学の純粋な理論に関して関心を示さないというところがあるので、僕はそういう意味ではあえて(フォーカシングを)やらない。
・これは結構意図的で、おそらくジェンドリンの哲学について語る人はあまりいないと思うが、(ジェンドリンを語る)大抵の人はフォーカシングをやっている。
・それで、フォーカシングというのは素晴らしいからこういう哲学がある、という感じだが、でも僕はフォーカシングというのは別に特定のカウンセリングや療法でやるものではなく、日常生活の中でいつも身体の感じというものに触れながら、僕らは生きている、という感じ。
・(フォーカシングは)ある意味、非常に日常的な態度。
・哲学というのは、あたりまえとか、それ普通だよねとか、僕らの日常だよね、というのをもう一回問い直して何かに気づくっていうのが哲学だ、というふうに思っている。


その後、ワークについての質問タイムで、私は百武さんに「思考と感情の明確な違い」について質問した。
それは、11月4日の「対話deナイト」で出されたJさんの疑問(=思考と感情と、明確な線引きってあるんだろうか?)が、私の中で「私の疑問」として息づいていて。
とつとつと私は言葉をつないだ。

「気づきの3つの領域の話があって、身体っていうか「感情」・「思考」・「現実」の中で、ちょっと最近、「身体(感情)」と「思考」の明確な区別が、私の中でモヤッとしてきて。コミュニケーションをするのに言葉を使う。一般的に言葉は思考だというふうに言われますけど、でもそうすると、ワークをされていて、さっきのワークでも、「楽しいことしたい」と(言ったワーカーに)「それは思考」(だよね、と言われた)と私は受け取ったのですが、「もっと具体的に」という形でアプローチされたと思うのだが、その辺り、言葉を使う、コミュニケーションするには言葉を使うしかないが、そのときの感情・身体と、思考というところの区別を知りたい。

質問の意図がよくわからない。

領域として、「思考に走る」とよろしくない、「行き来する」のがいいんだと。思考がダメだということではなくて、思考に偏るのがよろしくない、というふうに理解はしているんですけれど、だけど、百ちゃんが、ワーカーにアプローチするのも、もちろん「触れていい?」って聞いて触れていかれるのもあったが、基本、言葉ですよね? 言葉でワークはとりあえず進んでいく、と思うのですが。一般的に言葉は思考だと(いわれるが)。

言葉は思考から出てくるんだろうと。声のトーンが違うよね。で、今、何を質問しようとしているのかがわからない。

思考と身体とか感情の境目、境界、です。

ここで、ワーカーからの補足説明が入って。
「楽しいことってどういうことなの?」と言われて、私が言葉で説明したら、「それって言葉だよね」と言われて、「これが言葉なのか…なあ…?」と自分で受けながら、(私に向かって)多分、そういうところですよね? コンテンツのことではなくて、「楽しい!」って雰囲気だったら思考じゃなくて身体? 私もそれで、じゃあ、楽しいことってどんなこと? と思って。

楽しいことしたいっていうのは、ただの言葉だよね。でもゴルフが楽しいというのは、あなたの感覚を伴っているから、楽しいってことを言ってるわけだ。
感覚を伴った言葉ならば、それは…
身体から出ている言葉だよね。
あ〜。あれやりたいこれやりたいと言っている時は…
だってそれは、ただの言葉…私はこうなりたいああなりたい、言葉だから何も変わらない。
だから、たとえば、人のためになることをやりたい、と言った時には、「それ、言葉だよね」と言われた時には、私の感情が伴ってない気がしたから、ってことですか?
だから、人のためになりたい、というのはただの言葉だよね。
今、ただの言葉って言われた時には、思考だよねってことですか?
うん。意味のない言葉だ。
抽象的すぎてってことですか?

人のためになりたいっていうのは、抽象的な言葉だ。いくら喋っても眠くなるだけだ。
概念としてあるだけで、映像が来ないと、
まあ、具体的に何を現実の世界でしたいのかっていう具体的なものが伴わなければ…、まあたとえば、お昼だから何か食べたい、って言葉だよね。注文して出てくる時には、自分の何か、で選ばなきゃいけないよね。これは明らかに違うよね、食べることを伴っている。
…はい。ありがとうございました。

ーーーこれを現象学で説明すると、どうなりますか?

現象学ではなくて、ジェンドリンの体験過程理論の考え方で言葉っていうのと感情っていうのはどういう関係になっているか、として言えば、言葉っていうのは基本的に概念なので、そこに論理的な含意関係がある。動物って言えばそこには犬とか猫とか動物って入る。僕らの関係でいうと、本来人間は動物なので、でも人間は、とそこで区別している。
そういうようなことが、概念とか言葉というのには入っているので、だからまさに思考っていうのは論理的に展開していく。
でも、ジェンドリンは、もちろんそれは意味あることだし、そういうことによって、(不明)。でも僕らが今、直接この場で感じているものというところにフォーカスして、それによって、センシティブっていうのが、だんだん形作られていって気づいていく。それによって、それを言葉で表現しようとすれば、…これは多分一般のフォーカシングの理解ではちょっと…僕からするとジェンドリンの哲学を誤解してると思うが、、フェルトセンスにぴったり合った、つまり「自分の身体で今直接感じているその感じをぴったり言語に表現する」ということに認識されているのが、実はジェンドリンは(そういう認識を)否定している。
というのは、そんなことはできないから。言葉というと普遍的なものなので、たとえば犬っていえば、私が飼っているポチも指せるし、お隣の何か別のわんちゃんも指せるし、あるいはセントバーナードとかチワワっていう犬種も指せるし、犬とか猫とかは鳥とかと違う動物の種類としての犬も指せる。だから、犬って言葉は、わかりやすく言えば、ありとあらゆる意味を指せる。ところが今、この場である状況の中で、特定の人とか物との関係の中で、私がここにいて感じるものっていうのは一回こっきり。だからその一回こっきりのものを普遍的な言葉で言っても必ずズレる。
それでむしろジェンドリンはズレっていうところが新たな意味を気づかせる契機になる、と。つまり犬っていっても、それで犬を指しているが、しかしこれは私が長年いつも散歩に行ったりした愛犬だから、犬っていう以上の存在なんだ、というのを、犬っていう言葉によって初めて気づく、っていうこと。
つまり、犬っていうことで、言い当て(ら)れているけど、でもそれだけではないんだ、っていうのを。そうやって自己理解が進捗していくことが、フォーカシングの基本にある、ということ。
だから端的に、概念とか言葉っていうのがダメで、感じるってことが大切だと言っているのではなく、ジェンドリンはそこの相互作用ということによって、私たちの体験というのは動いていきますよ、と。
でも僕らは割と普通に、言語的に概念的に、自分の体験とか状況というのを理解してしまっている。それで問題ない人はそれでいい。でもなんかこう違和感がある、なんかしっくりいかないな、というふうに、つまりその概念で捉えてるというのをはみ出てるところという方が、その当人にとって大きいこと、っていうか大事なこと。だから、そこに意識を向けるためにも概念を使うっていうのが、ジェンドリンの哲学だったら、そうなる。

なんというか…「立て板に水」って感じで、とうとうと説明される言葉は、とても私の思考が追いつかない、という感じでしたけど、いま改めて言葉を拾っていくと、かなり精密な言葉で説明されているのがわかります。
私の知りたかった、思考(=概念)と感情(を表す言葉)の関係も明確にわかりました。
ジェンドリン哲学を知りたくなりました。

画像は、11月6日、リビングから撮った黎明。
頭の中の「わからないこと」が解明されて見えてくるのは、こんな感じなのかもしれない、だけどまだ「黎明」状態だ、と思いました。


【追記】
このコラムを書き上げた午後、「肩甲骨まわりをほぐす整体院」という、ちょっと変わった名称の整体に行きました。
そこは、私が32年前に高1の担任をした、野際晶宏くんの施術院です。
彼の話が非常に興味深かったので、追記しておきたいと思います。


東洋医学では、人の作用(行為・状態)を、「思考」「感情」という区分けでみない。
身体の内(なか)のエネルギーの状態でみる。

人には、丹田(臍の下辺り)に「衛気(えき)」、胸の辺りに「営気(えいき)」、眉間の辺りに「真気(しんき)」がある。
「衛気」は、免疫・防衛のエネルギーで、これは食事で補うことができる。
「営気」は循環のエネルギーで、廻ることが鍵。(余談だけど、金運はこのエネルギー。お金は巡らないと入って来ないから。)
「真気」はオリジナリティー溢れる、唯一、不変のエネルギー。「思考」「感情」の区別なく発動する。

「営衛(営気と衛気)」のエネルギーがあれば、人は健康に生きられる。
「営気」を練り上げて「真気」を生み出していくのは仙人。(数が非常に少ない)
つまり、「営気」までは努力によって生み出していけるが、「真気」に至るのは、努力したらなんとかなるものではない。

「真気」は「先天の気」で、補うことはできずにどんどん減っていく。
これは、DNA、ミトコンドリアに関係する。
ミトコンドリアには二種類あって、それは「核」にあるのと、「細胞(核の外)」にあるのと。
「細胞」にある方は母性遺伝によるが、「核」にある方は、遺伝によらず、オリジナル。つまり「真気」そのもの。

「先天の気」というものは、母親を通じて受け継がれる、と道教では説く。
母親は、無意識に生涯、与え続ける、という。


私が教員だった時、授業がうまくいったときに感じた感じ…それは、私の胸のあたりから頭上に、そして弧を描くように教室の後ろの方まで届き、それが、円を描くように巡って私の方に戻ってきて、それが何度も何度もぐるぐると廻る感じ、を彼に話したことがあって。
その時、「大周天」というエネルギーの循環を感じていたんですね、と彼は言った。
それは、14、5の頃の、ピアノが上手く弾けた時に感じた、大きなグランドピアノを抱き抱えられるように感じた、その動きとおんなじなんだ…と言った時、「小周天」をまず体験していたから、「大周天」も体験できたんですね、とも彼は言った。

私は、エネルギーの流れというものを考えたことはなかったけど、この「不思議な感じ」を言い当てられて、なんだかちょっとほっとした気がしたのを覚えている。
言葉は…「名付け」によって、何か「その状態」を収めるべき場所に収めてくれる、というか、それによって心の落ち着きを得られる、というか。
そういう意味で、言葉は、思考を組み立てるツールとしてだけではなく、感情に密接に繋がっている、と思う。

彼と話したことで、また少し、思索が深まりました。

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