大阪・奈良 生駒駅徒歩6分の心理カウンセリングルーム
オンラインでも受けられます
教員歴31年の独自メソッドで、超短期で不登校、夫婦関係、親子関係、職場の人間関係などの悩みを解決
全く効果がなければ返金保証いたします
生駒市元町2-4-20
  1. コラム
  2. 沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム
  3. フォーカシング
  4. 私のフォーカシング・レッスン(4)〜「念」は今の下に心と書く〜池見陽先生のエイジアン・フォーカシング・メソッヅ〈3〉
 

私のフォーカシング・レッスン(4)〜「念」は今の下に心と書く〜池見陽先生のエイジアン・フォーカシング・メソッヅ〈3〉

2022/04/04
私のフォーカシング・レッスン(4)〜「念」は今の下に心と書く〜池見陽先生のエイジアン・フォーカシング・メソッヅ〈3〉
池見陽先生の「Asian Focusing Methods」セミナーの続きです。

「スペース」が鍵
・今からお話しすることも、今日の「エイジアン・フォーカシング」の中にも、この「スペース」というところがとても大事になってくる。
・「クリアリング・ア・スペース」。それは以前、僕が「間を置く」と訳して、でも関東では「心の空間づくり」と訳していて、日本国内で違う訳があってややこしいので、最近はもうカタカナで「クリアリング・ア・スペース」と言っている。
・心の中は散らかった部屋みたいだと思ってみて、いろんな「気がかり」があるので、それをひとつずつどこかに置いておく。そうすると、ちょっと心の中の部屋が広くなった、と。スッキリしたとか、そういう状態になっていく。
・一度、高野山に行って、高野山の僧侶と仲良くなって話していたら、「悟りを開きたい人は、まず部屋を片付けなさい。」みたいなことを言う。部屋を片付けると、部屋の中が広くなって、スッキリするでしょう、と。それが大事なんだ。だから手始めに部屋を片付けなさい、と。
・僕、聞いていてもう、本当に同感で、ただ、僕らは心の中の部屋を片付ける。いろいろ散らかった部屋があるので、それを一つずつ置いていくように整理していく、と思って、そんなふうに「クリアリング・ア・スペース」をやるんですけれど、タイに行って帰ってきた時に、『アップデートする仏教』という本が出ていると、僧侶の人に教えて貰って、それでこれを読んでみて「これは面白いな。藤田一照さんと山下良道さん、ここに書いてあることは、まさにフォーカシングと同じことになるよね。」と。
・要点は何かというと、「いったい誰が瞑想しているのか」そこがポイント。瞑想しようとか、悟りを開こうとか、思いすぎてそれができない、という実態が書いてある。それはそう。フォーカシングしようと頑張り過ぎるとフォーカシングにならない。それから「空間づくり」をしようと思い過ぎたらできないとか。部屋を綺麗に片付けようと思い過ぎたら、頑張り過ぎたら全然片付かないとか。そういうことがある。

なんか。自分の部屋が散らかっているのは、自分の状態が散らかっている証拠。だから、自分の心を整えようと思うとまず自分の部屋を片付けなさい。
そういうふうに聞いたことあります。なんとなく、そうだろうなと思った記憶があるけれど。
今回私は「僕らは心の中の部屋を片付ける。」という言葉に立ち止まった。
なんというか…確かにカウンセリングというのは、とっ散らかった心の中のものを、ひとつひとつ丁寧に拾い上げて、収めるべき場所に収める作業。
収まりきらないものは、どうしたら「今の居心地悪い状態」を少しでもマシにできるのか、を考えていく営みのような気がする。


マインドフルネスのベースは仏教瞑想

・さっきのマインドフルネスの話に戻るが、1975年ぐらいだったと思うが、ティク・ナット・ハンの『The America Of Maindfullness』がアメリカで出た。フォーカシングは1979年なんで、4年遅れだが、だいたい同じ70年代後半ぐらいに出てきている。でも、ジェンドリンの文献を調べていくと、ジェンドリン・オンライン・ライブラリがあって、この中の検索キーワードで「マインドフルネス」と「フォーカシング」、或いは「マインドフル」で検索すると、ジェンドリンは一度も「マインドフルネス」について言及していない。「マインドフル」も「マインドフルネス」も、どちらも一度も、ジェンドリンの書き物の中には登場しない。だから全く「マインドフルネス」は知らなかった、実践していなかった、言及していない。

・ティク・ナット・ハンはベドナムの僧侶。その人が火付け役みたいなところ。面白いところにいる人。ベトナムだから、いわゆる「テーラーワーダ」、昔でいう「小乗仏教」の国にいるけど、彼は「大乗仏教」の人。


※大乗仏教・小乗仏教…小乗(しょうじょう、梵: हीनयान Hīnayāna)とは仏教用語で、劣った(ヒーナ)乗り物(ヤーナ)を意味する語。個人の解脱を目的とする教義を、大乗側が劣った乗り物として貶めて呼んだものであり、中立的な呼び名ではない。
衆生の救済を目的とする教義(大乗、大乗仏教、偉大な乗り物)と対比的に用いる。菩薩行を称え、自らの教えを大乗と僭称する集団が、二乗(声聞乗と縁覚乗)をまとめて小乗と呼んだ(この場合の声聞乗は当時の部派仏教を指していたとされる)。(以上、Wikipediaより)

・(小乗仏教、大乗仏教)どっちもだけど、「マインドフルネス」のベースは、実は瞑想にあって、広く人々に知ってもらうとかいうようなメリットがある…
・僕がアメリカにいた時に知ったのだが、マインドフルネスとは仏教瞑想のエッセンス。「気づく」とは、パーリー語で「サティ」。漢訳経典の中では「念(ねん)」。
・八正道の中に「正念」というのがある。「正しい念」。「念」は今の下に心。これはすごくいい感じ。今ここの気づき、みたいな
・アメリカで、仏教といったら参加しにくい。たとえば、ユダヤ教の人が参加しづらい。クリスチャンの人も参加しづらい。イスラム教徒も参加しづらい。だから宗教色をちょっと排除して、瞑想法として、宗教と切り離して、「マインドフルネス」という名前にしている。
・だからティク・ナット・ハンも仏教瞑想のミラクルという本ではなくて、『マインドフルネスのミラクル』という本で、ちょっと仏教色を消している。
・その分、広くなった。いろんな宗教の人が、宗教の教義関係なく参加できる、というところがすごく大事。でも基本はやっぱり仏教瞑想にある。
・Googleが会社をあげてそれをやる、というのは、とても納得がいく。Googleの社長はインド人。インド人なのか、インド系アメリカ人なのかわからないが、当然そういう瞑想文化とかよく知っている。
・僕のiPhonの「ヘルス」の中に、「マインドフル・ミニッツ」という入力する欄がある。今日はマインドフルネス何分しましたか? のような。というぐらい、アメリカでは一般の言葉になっている、この「瞑想」が。「瞑想」と言わずに「マインドフルネス」と言った成果。

「無我」と「マインドフル」・「マインドレス」の関係(『アップデートする仏教』から学んだこと)
・この『アップデートする仏教』をもう一回考えてみると、マインドフルネスをやろうやろうと思っていると、マインドフルじゃなくなる、だから「マインドレスとはどう違うのか」という質問があって、僕はマインドレスも面白いなと思う。つまりマインドフルネスをやろうという「我(が)」が働き過ぎたらできなくなって、本当は「無我」の方がやりやすい。無我じゃないとマインドフルじゃないのかもしれない。「無我」を英語で言うと「マインドレス」じゃないか、そんなことも思ったりする。
・だから、ちょっとそこを、さっきのエクササイズを工夫すると、たとえば「注意を戻す」と言った時に誰が戻しているのか、「注意を向ける」と言った時に誰が注意を向けているのか、そこで「我」が働き過ぎている、注意を向けようとするとか、意識を戻そうとするとか。
・もうちょっと違う視点を取って、たとえば経典なんかをみると、どんな表現になっているかというと、「生起と消滅」みたいな表現がある。英語だったら、「rising and fallng」なんですが。risingは上に上がってくる、fallngは落ちていく、英語の「rising and fallng」はすごく綺麗な言葉だし、いろんなものに使う。たとえば、ローマ帝国の繁栄と衰退も「rising and fallng」。

・それで呼吸もそう。息が入ってくる時に胸やお腹が上がっていって、そして空気が出ていったら胸やお腹が下がっていく。だからそれを「生起と消滅」でもいいし、「上がっていく下がっていく」でもいい。そうすると、「私が息を吸っている」ではなくて、何か今お腹や胸が上がっていっている、今下がっていっている、今上がっていっている、今下がっていっている…みたいに、そこに気づきを持っていく。呼吸しようとあまり意識しない方がいい
・よく僕がいうのは、呼吸しようなんて全く思わなくても、この辺の空気が鼻の穴から入ってきて、入ってきた空気がここら辺で膨らんで、そしてこの膨らみがへこんでいくとポンプみたいに空気が外に出ていって、この辺でふあっと漂っている、こんなイメージ。
・そうすると、「私が呼吸している」と思わなくていい。何も考えなくても空気が勝手に入ってくるから。勝手に入ってきて、勝手に出ていく。
・だからお釈迦さまの「入出息念経」。20個のエクササイズがあって、最初のエクササイズが「短い息が入ってきたときに、短い息が入ってきたことに気づいておく」。二つ目が「長い息が入ってきたときに、長い息が入ってきたことに気づいておく」。つまり、長く息が入ってきたのか短く息が入ってきたのかは、私がコントロールすることじゃない、私はそれを見ていて気づくんだ、あ、今の短かったな、あ、今の長かったな、私が長くしているんじゃない、と。
・ここがすごく面白いところで、僕がお寺に行ったときに、一番困っていたのはそこだった。つい呼吸をコントロールしてしまうクセがあって、長く息を吐こうとしてしまう、という。だからよく言われていた。そんなに長く息をするな、とか息をコントロールしようとするな、と。

・それと同じように雑念もそうだが、あなたが考えた、私が考えた、んじゃない、よく見ると。その「考え」がやってきたのだ。そしてその「考え」が去っていく。それも「生起と消滅」。お釈迦さまのお経の中では、「それがどのように生起したか、よく観察しなさい。どのように消滅したか、よく観察しなさい。」というのがある。
・いろんな思いも、雑念と言われるものも、やってくる。だからマインドが勝手にワンダリングしているんです。自分の頭脳みたいなところが勝手にあっちこっちいっている。
・でももし自分が、いわゆる「無我」の状態で、ただ空気が入ってくる、空気が出ていく、それを見ている時に、今昼御飯のことが入ってきた、今、昼何食べようかなという発想が入ってきた、ということに気づいたら、それがどこかにいった、というふうに消えていく。
・だから、私が考えた、じゃなくて、いろんな思いがやってくる、出ていく、そんなふうに見ているといいのかな、と思う。これが『アップデートする仏教』から学んだこと。
・瞑想しようとするよりも、そういう意識の方がいい。


「無我じゃないとマインドフルじゃないのかもしれない。」と言われつつ、でも、「無我」を英語で言うと「マインドレス」になる、と、ちょっと笑いながらおっしゃったので、まあ少し、言葉遊び的な感じにも受け取ったのですが、この、表裏一体的なありようが、実は本質を表しているのではないか、と思います。
「私」が満たされるためには、「私」の中を「私」で満たしてはならない。
「私」を手放したときに「私」は満たされる。
「満たす」意志を持たないことで「満たされる」。
私はここで、急にティク・ナット・ハンさんの『ブッダの<呼吸>の瞑想』を思い出しました。

  呼吸の偈(げ) その一
   ブッダに呼吸してもらい
   ブッダに歩んでもらう
   私が呼吸することはない
   私が歩むこともない

  呼吸の偈 その二
   ブッダが呼吸している
   ブッダが歩んでいる
   私は呼吸を楽しむだけ
   私は歩みを楽しむだけ

  呼吸の偈 その三
   ブッダは呼吸
   ブッダは歩み
   私は呼吸
   私は歩み

  呼吸の偈 その四
   ここにあるのは呼吸だけ
   ここにあるのは歩みだけ
   呼吸している人はいない
   歩いている人はいない

  呼吸の偈 その五
   呼吸しながら安らいでいる
   歩きながら安らいでいる
   安らぎは呼吸
   安らぎは歩み

なんとなく心に残ったフレーズですが、あまり意味は分からなかった。
「委ねる」ということかな、と思ったぐらいで。
でもこれは「無我」のありようを説いていたのだ、と腑に落ちました。

(セミナー中、質問があればチャットに入れるのですが、池見先生に「この呼吸の偈は同じ意味ですか」と質問したら、「そうです」というお答えをもらいました。)

…まだまだ続きます…。

画像は、4月2日の朝、アンジーとの散歩中に撮った、ご近所の桜。
昨年、一昨年の桜の写真を撮らないままだったので、久しぶりの一枚。
お天気はあいにくの薄曇りだったので、もうちょっと光がほしい気もするけど、まあ、これがそのときの「今、ここ」。

カウンセリングルーム 沙羅Sara

あなたはあなたのままで大丈夫。ひとりで悩みを抱え込まないで。

明けない夜はありません。

電話番号:090-7594-0428

所在地 : 生駒市元町2-4-20 

営業時間:10:00〜19:00

定休日 :不定休

ルーム案内・アクセスはこちら