池見陽先生の「Asian Focusing Methods」セミナーの続きです。
午後の部に行く前に、先のコラム〈5〉で池見先生の言葉を拾い上げながら、私の中で想起されたあれこれを、少し整理しておきたいと思います。
「人が感じることは、いつも未来志向」
何か不都合な事態が生じた時、意識を持たないものについては過去に原因を求めるけれど、意識を持つ人間の場合は「次はどうであったらいいか、なんとなく知っている」ということを言われていた。
それについて、「今ここの体験から離れて、未来を扱っているような感じがするのですが」という質問も出された。
池見先生は「でもそれは、未来でなくて、今、なんです」と答えられていた。
そう。ね。未来について考えているけど、それを考えているのは「今」。だから、今、ここでの自分のありようを探っている。
で、不都合とか、何か不足を感じるような状況にあるとき、人は、というより生き物は、その「欠けた」部分を補おうと動く、のだろう。
それは、なぜか。
うーん…たぶん…命の存続自体が、「未来志向」なのかもしれない、と思ったりする。
命がいつまで長らえるものであるのか定かでない中、「明日」の存在を無意識に信じ、「明日」に向けて用意する。
衣食住を整える。それは、「今」が続いていくことを想定しての行動。
…そうね。そうやって、人は生きていこうとする、のね。
「生きる」こと自体、未来志向、ってことか。
なかなか感慨深い。
かつて私は、授業で生徒たちから意見を引き出すのに、2つのことを話した覚えがある。
ひとつは、「人の意見に異議を唱えることは人格の否定ではない」こと。
日本人は特に、反対ですとか、私はそう思いません、というのを言いづらく感じるように思う。
それは、意見を否定することが、その意見を言った人を否定するように感じるからではないか、と思ったことがあって。
いやいや、そうではないハズ。その人を否定するのではなく、その意見に疑問を呈するだけだから。
もうひとつは、「自分の意見を変えてもいい」ということ。
最初は◯◯と思ったけど、△△さんの考えを聞いて、□□と思えてきた。××という理由で。こんなふうに変えていい。
なぜなら。人間は成長する存在だから。
授業を受けても何も変わらないというのなら、授業する意味がない。
考えが変わる、というのは成長した、ということで、喜ばしい、と。
ただし、××という理由で、という根拠を示す必要がある、と。
小中学校で培われた「同調を是とする価値観」はなかなか強固なものだったけど、それでも1年を通しての取り組みで少しずつ変わっていく。
「学習集団」としてのありようを育てていくことで、私との「1:1」対応だけでなく、教室内に無数の「1対他」対応を生み出していく。
そうすると、「グループダイナミクス」とも呼べるような思考のうねりが生じる。
その思考は、単に「頭」で考えてのものでなく、「問い」を自分の内(なか)を巡らして、そうして「言葉化」されて出てくるような思考。
「フォーカシングにはもう一つ軸があって、それはスペースを取るということ」
先ほどの「人が感じることは、いつも未来志向」ということの延長線上に、だから無理に何かをしようとするのではなく「やってくるのを待つ」という話を池見先生は続けられた。
その待つ時間を取る、という意味での「スペース」。
それから、ゲシュタルトとは異なって、問題とする対象に対して「ある程度、距離(=スペース)を置く」ということ。
この、取り上げようとする対象に対しても距離を取るありようが、ゲシュタルトとは決定的に違うところなのだと思う。
もちろん、今の自分にとっての適切な距離を測るために、あえて近づいてみてみるわけだけど。
それは、対象との境界線(バウンダリー)を引くための「過程」ではあるのだけけれど。
しかし、考えようによっては、それは「危険」なことであるかもしれない。
対象に近づき過ぎることで、自分の感情の荒波が押し寄せてくるかもしれない。
そういった危険性を回避する、という意味で、フォーカシングは「安全」な気がする。
自分のレディネスは自分で測りきれないところがあるし、もちろんファシリテーターの力量でワーカーのレディネスを測りきれない場合もあるから、そういった一切の「不確定要因」から距離を取る、という意味で、フォーカシングの安全性が担保される。
…そうね…。「まあ、これは提案なんだけど」と百武さんに切り出されたことが何度もあった。
そうして、もう少し、強く感じるようにと促された場面、を思い出す。
最初の頃、なかなか踏み込もうとしない私に「まあ、実験だから、」と促されて。
それは私にとって、有効であった、と思う。
それまでと同じことをするだけだったら、何もゲシュタルトのワークを受ける必要がないわけで。
せっかくこの場に出てきたのだから、一歩踏み出してみよう、と。
しかし…一歩踏み出させることの効力と同時に、危険性も伴っていたように思う。
危険性を回避できるのは、ファシリテーターの、ワーカーのレディネスを感じ取る力量がある場合。
百武さんなら、大丈夫、であっても、多くの人がそうできるわけではない。
しかし、と今、思う。
そういった危険性を伴うことを、あえてする必要があるのか?
ファシリテーターの、ワーカーのレディネスを感じ取る力量をどう測るのか、という検証もなしに進めることは、いったいどうなのだろう?
「ゲシュタルトは怖い」という反応が一部であることも、ある意味、よほどのファシリテーターでなければ危険回避ができないことを察知したものであるかもしれない。
対して「フォーカシングはやさしい」という評価も、フォーカサーに無理をさせない、という点において、やはり、そうだな、と思える。
この安全性、扱いやすさ、がフォーカシングの裾野を広げていっている、ような気がする。
穏やかで、優しいフォーカシング。
無理のなさ、が魅力的。
画像は、4月6日にお出掛けした時に撮った、藤原京の一面の菜の花。
一面に広がる菜の花を見たとき、つい、山村暮鳥の「純銀もざいく」という詩を思い出した。
菜の花のひとつひとつの小さな黄色い小花も可愛いけれど、そして、私は花をクローズアップして撮るのが好きなんだけど、
ときに、ざーっと見渡すような立ち位置に身を置くことで安らぎを感じるのは、距離を取ることで見えてくるものがあるからかもしれない、と思いました。
<参考>
「純銀もざいく」 山村暮鳥
いちめんのなのはな
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かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな
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ひばりのおしやべり
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やめるはひるのつき
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