池見陽先生の「Asian Focusing Methods」セミナーの続きです。
午後の部に行く前の、私の中で想起されたあれこれを、もう少し。
「内省の必要性を伝えていくこと」
「内省慣れしていないクライエントさんへの対応」という質問に対して、池見先生は「まずその内省するということが大事だということを伝えていく必要があります」と答えられていた。
「ある種の心理教育みたいなことが必要なのかもしれません」とも。
そういうことで言えば、私もルームを開いて3、4年経って、クライエントの在り方がカウンセリングの進み具合に大きく関係することに気づき、それをコラムにまとめたことがある。
…そうか、それが「心理教育」だったんだ…! 腑に落ちた瞬間でした。
「言葉を与えていくこと」
さらに池見先生は「言葉にするのに慣れない、ということがよくあるので、時間をかけて一緒に言葉にしていく、というプロセスが大事」ともおっしゃっていた。
それは…長年国語の教員だった私には、特に実感するところ。
国語教育は「語彙習得」がベースにある。
自分の感じたものを表現しようとしても、それを指し示す語彙がないと始まらない。
ものの名前のように、知ることができるとそれだけですぐさま使えるが、感情表現だったり、状態表現だったりすると、もう少し手間取る。
さらには、語彙を得たとしても、それをどんなふうに使えばいいのか、運用に関わってくると、これもまた大変。
つまりは、言葉は、語彙を与えるだけでなく、それを「使ってみせる」ことをしないと、実際には使えない。
だから、池見先生が例に出されたように、「ウサギおってん」という幼児に「嬉しかったね」「可愛かったね」という言葉を返してあげることで、その語彙と共に、そういう表現方法を身につけていく。
同時に、ウサギを見て自分の中で湧き上がって来た感情に「名付け」をし、そういった感情が自分の中にあったことを記憶する。
言葉で表現しないと、感情の存在自体が消え去っていく。
そう。だから、「難しい言葉」を辞書で調べて、わかりやすい言葉に言い換える作業だけでなく、辞書的な、一般的な説明ではなく、「この文脈で」どういう意味か、の確認をさせた。
さらには、やさしい「言い換え」の言葉ではなく、この語をここで用いた「効果」(=良かったのか、悪かったのかの評価)にまで踏み込んで考えさせた。ーーキーワードとなる語彙には。
そこまで踏み込まないと、その言葉は自分の血肉とならない。
血肉とならない語彙は、自分の内(なか)に留まらない。
…そうやって、自分の内に言葉をストックしていく、地道な営み。を思い出した。
「セラピーの関係様式としてのフォーカシング」
「フォーカシングを使う」という表現に池見先生が立ち止まったのは、その表現の奥にある、そういった表現を取るときの、「人の意識」を問題にされたからではないか、と思う。
「フォーカシングを使う」という表現は、言わば(本来の)フォーカシングのありようと対比的な位置付けにあったわけだけど、しかし、そういった対立概念を提示されることで、「フォーカシング的ありよう」が明確になる。
そう。ものごとは、何かとの比較においてはっきりするので、そういう意味で「質問する」ことは、とても大事になってくる。
「対話を拓く」という意味で。
そういう意味で、「フォーカシングを使う」という表現を提示してくれた人に感謝する。
それから。「雑念が外から湧く」「浮かんでくる感情が自分のものなのか、外側のものなのかの線引き」についての質問に対して、池見先生は「内と外という分け方自体、人間が勝手に作った概念で、実体としては存在しないかもしれない」と答えられていたけれど。
二分法。内と外。精神と肉体。理性と感情。
それらは対比概念として、ものごとを切り分け、分析にかける。…そう。二項対立。
子どもと大人。女と男。子と親。生徒と先生。ワーカーとファシリテーター。フォーカサーとリスナー。
「果たして実体として二分されて存在するのか?」という池見先生の疑念をお聞きしていて、もしかすると、うまくいったカウンセリングは、立場の異なる者が二分されずに、…もっと言うと、渾然一体に感じられた時に生じる、ような気がした。
もちろん、異なる人間に、厳密な意味での「共感」はあり得ない。
しかし、池見先生が「追体験」と言われる、そういった謙虚なありよう、…あくまでもクライエントを尊重し、それを凌駕しないありよう、が、自他の境界を超え、それが「癒し」をもたらすのではないか、という気がしてきた。
人は、抱える問題が「解決」したときに癒やされるのではない。
まだ、なんら事態は変わっていなくとも、ただただ、たった一人の人に「わかって貰えた」と感じることで癒やされる。
…そんな気がする。
その「癒し」が、抱える現実問題に立ち向かう力を与えてくれる、のかもしれない。
画像は4月10日のまやはるこさんのコンサート会場、カフェ・KURINOKIの庭で撮った八重桜。
私はあまり八重桜は好きではないのだけれど、この木の花はとても可憐な気がした。
花びらの奥に、また違う花びらが存在する、ありようは、心に残った池見先生の言葉を振り返って、また違うものが私の中に想起されてくる、ありように、少し似ている気がする。