折々のことば。2024年4月26日の栗原康の言葉。
同じ場所にいながら別次元の道を進むこと……それが住まうということだ。
鷲田清一の解説。
賃労働と消費を軸とする商品世界の中で、人びとはまるで奴隷のようにその生をカネで査定され、締めつけられている。
だが、生きる術(すべ)などそれ以外にもっとさまざまにあるはずだと政治学者・作家は言う。
効率や有用性といった観念を廃し、野生的な華やぎでその生存の場を占拠せよと。
そして最後にこう結ぶ。「万国の大人たちよ、駄々をこねろ!」
『サボる哲学』から。
どんなふうに生きていくか、はどんなふうに暮らしていくか、で規定されるような気がしている。
どんなふうに住まうか、と言い換えてもいい。
どんな暮らしを組み立てていくか、は、自分の住まう場所、住まい方、に規定される。
どこに住むか。それから、何時に起きて、何を作って食べて、誰と会って、どんな仕事をして、どんな時間を過ごすか。
毎日の。なんの変哲もない、日々の暮らし。
もうあまり多くを食べることもないので。
少量を美味しく。
そうすると。素材にこだわるようになって。無農薬、もしくは減農薬のものを取り寄せるようになった。
それから。無農薬だから皮も大丈夫!と、今年は初めて甘夏のマーマレードを作った。オレンジ・ピールも。
ハチミツと種子島の甘蔗糖を加え、40%糖度で作った。
それを、捨てずに置いてあったガラス瓶に小分けして。
ガラス瓶は10分間煮沸して。
親しい人にお裾分けして。喜んでもらって。
自分でも昨日初めて口にしたけど。美味しい。
じんわりと。身体に染み渡るような甘さ。
それを、昨夜、広島から訪ねてきてくれた友人と一緒に食べた。
なんだろう…身体が美味しい、と言っているのがわかる。
ああ、こんなふうに。「滋養」というものは、身体に染み渡るものなんだ…と発見する。
長年勤めてきた日々は。
こんなふうに丁寧に食事の準備をすることは余りなくて。
時間に追われて、取り敢えず、食事時間に間に合うように、3品を用意して。
食べたら、急いで洗い物をし。次の家事に取り掛かる。
…そんな日々だった。
なんか。「人の暮らし、じゃない」と何度思ったことか。
なんでこんなに毎日毎日、時間に追われているんだろう…。
『モモ』の言う、「灰色な人」=時間泥棒に時間、奪われているんじゃないか? と何度思ったことだろう。
勤めを辞めて。
自分の仕事を自分で組む生活を始めて。
それが落ち着くまでちょっと時間は掛かったけど。
ようやくこのごろ、「自分の暮らしをしてる」感が出てきて。
ちょっと嬉しい。
…いや、だいぶ嬉しい。
自分の暮らしを支える、時間と空間。
何時に起きて何時に寝てもいい暮らし。
誰と会って、誰と何を話しても気兼ねない暮らし。
ようやくスタートラインに立てた、気がしている。
2週間前には。「パンデミック条約反対」集会&デモのために東京に行った。
デモのために新幹線に乗って東京に行ったのは初めてだった。
…もちろん、アンジー連れて。
アンジーと一緒にデモに参加した。
本当に多くの人が集った。3万人、と聞いたけど。確かに本当に大勢の人だった。
流れ解散するしかないような、人数。
なのに。マスコミは報道しなかった。
でも!全国から、私みたいに「止むに止まれぬ」思いを抱えて集まった人が、こんなに多くいる !と知ったことは。
大きな収穫だった。
私は、私を規定するものは私なんだと、本当に実感できたから。
まだ、日本人も捨てたもんじゃない!と思えたから。
私は、これからも、自分が必要と思ったときには、フットワーク軽く、動くだけの気力と体力と、それから財力を持っていよう、と思う。
東京往復は、3万円、だった。ちょっと痛い気はしたけど。
また、働けばいいじゃない?と思った。
私の心が欲しているならば。その心のままに動けるように。
今日、私はまたひとつ、歳を取って大きく(笑)なります。
画像は今年の4月11日に撮った、近くの「健民グラウンド」の桜。
もう散り初めの桜で葉っぱが出てきていて。でもその葉っぱの緑も初々しくて。
葉っぱが出るともう終わり、みたいに言われたりするけど、葉っぱがあってもいいじゃない?と思えました。