折々のことば。2024年3月13日のG・K・チェスタトンの言葉。
誕生は、死と同じく厳粛な別れなのである。 G・K・チェスタトン
鷲田清一の解説。
女性が子どもを得るというのは、子どもを独り立ちさせるという形で子どもと別れることである。
同じように、詩が一つの生命を得ることは、それを書き終えた詩人が別の存在へと離脱することである。
何かを生むのは分離、別れることだと、英国の作家は言う。
生むことで人は何かを我が物とするのではなく、失うのだと。
『正統とは何か』(安西徹雄訳)から。
ああ、そうだね、よく分かる。
書くことは。私から生まれるけど、書き終えた瞬間に私から離れて存在するようになる。
自分の中でもやもやと形にならなかったものが、スッキリ形を整えて、私から離れていく。
そうして。書いたものを、ちょっと「赤の他人」のように眺めることができる。
…ちょっとここのところは別な言葉に変えた方がいいな、とか、もうちょっと言葉を足した方がいいな、とか。
そういう判断ができるのは、「自分」ではない、別の視線で見るからだ。
だから、「書くこと」をカウンセリングに活かせられないか、と考えたのだった。10年前。
自分のモヤモヤを自分の内(なか)の小さな○○ちゃんと話す。
人目を気にする私と、ではなく、○○ちゃんと本音で話す。
そういった「気づきノート」。
もしかすると。「大人」になってもう長いと、自分の本音はどこにあるのか、さえおぼろになっているかもしれない。
…「大人」って、「こうあらねばならない」と、本音とは違うところで動いていくこと多い、からね。
そうすると。だんだんと自分が何を望んでいたのか、がわからなくなる。
「こうしないと」で自分をがんじがらめにしちゃって、さ。
まあ、そんな状態になって来られたクライエントさんに。
本音を言えてる頃の、○○ちゃんとの対話を勧めるんだけど。
最初はなかなか上手くいかない。
それはそうね。だって、何年もの間、○○ちゃんを放ったらかしにしてたんだもの。
今回、本の執筆にあたって、何人かの元クライエントさんに、ご自分の「気づきノート」のご開示をお願いした。
それで、写メで2ページとか4ページとか送ってくださったのを見て。
おお! こんなふうな「気づきノート」だったのか! と感動する。
だって私は、どなたの「気づきノート」も見ていなかった、からね。
カウンセリングコースが始まって、「どなたのも、私、見ません」と申し上げると。
皆さん一様に驚かれる。
「私が見る、となると、どの方も、『繕われる』でしょう? まこさんが見るなら、ちょっとこんな言い方やめとこうか、とか」
「気づきノートは、あなたがご自身と繋がるツールなのに、それじゃあダメでしょ? だから私、どなたの『気づきノート』も見ないんです。」
そう言うと、皆さん一様に納得される。
今回、まあ、自分のも公開しないと不公平か、と思って。
久しぶりに自分の「気づきノート」を書いてみた。
年末の母とのやりとりで傷ついたこと。
ホント母にも息子にも言いたい! 私だって、傷つくんだよ。。
(あれ? いったいなんでこんな話になっているんだか。)
あ、そうそう、書いたものは自分から離れていく、という話。
それで、悲しかった、辛かった、腹が立った感情も。
書いて、そこに封じ込めて、自分から切り離すことができる。
それで、カウンセリングを進めていくことができるんです。
画像は、12月3日、グランフロント大阪に見にいった「藤城清治 101歳 展」。(藤城清治、101歳なんだー!)
これは撮影OKの大きなパノラマ展示。
藤城清治の影絵に魅かれるのは、人は、こんな夢のような景色を心に持っているわけではない、からだと思う。
むしろ、悩みを抱えている時は、混沌とした「影」を抱えている、と言えるのではないか。
影はなくなりはしないけど、夢のようでない影の部分に光を当てることで、影の部分が少なくなっていく。
それで自己理解も進み、とりあえずは「生きづらさ」がなくなっていくなら、それでいいと思う。