折々のことば。2025年1月10日の堀江敏幸の言葉。
世界はひとつではないということを……
遊びのなかで学んでいるかどうかが、大人になってからの感性領域を決定づける 堀江敏幸
鷲田清一の解説。
原っぱや高台、土埃(つちぼこり)の舞う道や小川のほとり。
ある時期まで子供らには秘密の基地があった。
彼らはそこから住みなれた町を見下ろしたり、屈(かが)んで股の間から逆さに見上げたり、指でこしらえた窓越しに眺めたりしたと、作家は言う。
それはふだんの視線の「さみしい初期設定」を揺さぶる行為としてあったと。
随想集『戸惑う窓』から。
そういえば。生まれ育った家は旧国道沿いにあって、車の往来が激しい交差点の角から2軒目だった、けど。
道路に面しているのは父が営む自動車の整備工場。家はその奥にあった。
道路を隔てた向かい側は、その交差点へは傾斜があって、かなり低めの位置に建物が建っていた。
真向かいは市営住宅。その左隣には県の試験場があって。
割とこんもりとした木々が植えられていた。試験場にはいちじくの木があって、実がなった。取って食べた記憶がある。
向かい側の、低い位置から見る工場は。なんだか見上げるようにして見るそのお店は。
ちょっと見え方が違うだけで、なんだか見知らぬもののようで。不思議だった。
それはある意味、「見慣れた世界を違った角度で見る」入り口だったのかもしれない。
その店先で働く父も、ちょっと違って見えた。…ちょっと他人を見るような視線で、見ていたのかもしれない。
指でこしらえた窓!
そうそう。片方の指を逆さまにして。その指の窓から見る風景は。
自分が選んだものだけを切り取り。指で作った窓の中に収めることができて、愉快だった。
…そうね。自分の「手中」に収める感じ、かしら。
私に圧倒的に迫ってくるものではなくて、こんなに小さく私の指の中に収まる! のが嬉しくて、笑い転げた。
忘れてた、けど。急に思い出した。
笑った声は。木々のてっぺんまで届き。工場の前に立つと、あんなに車の騒音がするのに、低い位置からはそれほど車の音も聞こえなくて。
別世界、だった。
同じ道路の交差点でも。立つ位置によって、聞こえる音も違う!のは。私にとって異世界(ワンダーランド)への入り口だったかもしれない。
それからは。たぶん、同じものを見るのでも、違う角度から見たらどうなる?という視点が私にはあった、ような。
自分にとらわれていると、なかなかそうもならなかった、けど。
でも、そういう視点を持っていて目の前のことにかまけて忘れている、というのと、そういう視点がない、というのとでは雲泥の差がある。
忘れている場合には、思い出す時がある、ということだもの、ね。
それが作家の言う「大人になってからの感性領域を決定づける」ということなのだろうか?
まあでも。
感性は「育む」ものだから。いくつからでも、大丈夫、な気がする。
子どもの頃の経験がないとダメということではなく。いくつからでも始めたらいい。
私はそう思う。
画像は、朝の光の中の撫子。
花をアップで撮るのも、もしかしたら、普段の視点では見えないものを切り取ってこようとする行為かもしれない。