昨年4月から受け始めた、GNK主催の「ゲシュタルト療法トレーニングコース」もいよいよ最終回を迎えました。最終回は二泊三日の合宿で、昨日午後1時に「現地集合」だったのですが、「現地」はなんと信貴山千手院の宿坊です。
信貴山は「張り子の虎」で有名で、何度か訪れたことはありましたけど、宿坊は、初めてでした。山の斜面を利用して建てられているのか、玄関から入って階段を降りたところの1階のお部屋を4室用意していただきました。部屋の外に廊下があり、大きな中前栽がしつらえてありました。お庭に面してはガラス戸になっているのですが、そのガラスときたら、昔懐かし「ものが歪んで見える」硝子でした…!(私の子どもの頃は、こんなガラスだった…)
さて、初日は、まず理論の整理から。「トレーニング・テキスト」をおさらいする形で、順番に振り返りをしていきました。テキストから抜き出す形で整理します。
ゲシュタルト療法とは
精神分析医フリデリック・S・パールズとゲシュタルト心理学者であった、ローラ・パールズ、そしてポール・グッドマンによって創られた「今、ここ」での気づきを重視する「実践的な心理療法」。
ゲシュタルト療法の創始者であるF.S.パールズが影響を受けたのはフロイトの精神分析、ゲシュタルト心理学、実存主義、現象学と東洋の禅。
ファシリテーター百武正嗣さんの説明で、「パールズは日本にも来て禅を学んだけど、日本の禅のシステムは、『禅坊主』を作り出すシステムで、それは、西洋の『精神分析医になるシステム』と非常によく似ている。」「一生かけて、悟りが開けるかどうかわからないなんて、システムとして非合理的。だから『悟り』でなくて『ミニサトリ』でいいとパールズは考えた」という言葉が、印象に残りました。あと、「身体への問いかけ」の理論的枠組みを作るのに影響を受けものとしてウィルヘルム・ライヒの「筋肉の鎧」、「センサリーアウェアネス」と名付けられる前の、ジュディスの先生であるシャーロットの身体へのアプローチ、フェルデン・クライスなど。
身体中心型療法〜ウィルヘルム・ライヒ〜
フロイトがウィーンに1922年、精神分析診療所を設立した時に、臨床助手の第1号となった。後に彼は多くの分析医の指導にあたるとともに彼らの個人分析も行なった。フリッツ・パールズもその1人でありライヒの身体中心型の心理療法の影響を受けた。
ライヒの心理学への貢献は次の3点である。
1)精神と身体の調和を強調したこと。
2)心理療法に身体のを含めたこと。
3)「性格の鎧」の概念。→のちに、「筋肉の鎧」に改変
ライヒの有名な「性格の鎧」という概念は、人間の慢性的な筋肉の緊張がどのように個人の歴史の中で形成されていくかを示したものである。ライヒは<個人の性格>はそれに対応する<身体的な態度>があるということを強調したのである。人の性格は、筋肉の硬直と関係がある。人は様々な感覚(怒り、快楽、悲しみ、性的感覚)を感じるわけであるが、それを自由に表現することができない時、または表現することが危険を伴う場合には、その感覚や感情を抑圧しようとするために筋肉を緊張(硬直)させてしまう。
その防衛的な<身体的な態度>が、性格の鎧であるとした。ゲシュタルト療法では抑圧していた感情や感覚に気付いた時に、その感情や感覚を表現するか、しないかの選択が可能になるとした。
変化の逆説〜ベイサーの「変化の逆説論」〜
ベイサーは、「変化の逆説論」で、「変化は人が自分自身である時に生じるのであって、自分自身であろうと努めている時には生まれない」と表現している。
今自分が行っている行為や行動を改めて「もっと良い行動」「もっとより人間らしい行動」をしようと目標を置くが、そのような努力は自己否定の上に成り立っているために、決して成功しない。「今の自分」を本当に受け入れた時に変化は自然に起きてくるというのが、「逆説的な変容の理論」。
神経症のメカニズム(コンタクト・バウンドリーの障害)
<Projection(投影)>
投影とは、自分が感じていることを他人の感覚に委ねてしまうこと。私が怒っているのにそれを認めない代わりに「あの人が私を怒っている」と自分の怒りを投影すること。自分の責任を負わないこと。
百武さんの追加説明は、「自分の感覚を分離してしまうこと、と言い換えてもいい。自分がそれに気づかない状態であることを言う。」でした。スピリチュアルが好きな人が陥りやすいとも。
<Introjection(鵜呑み)>
鵜呑みとは親の価値観や社会の価値観を無意識に取り入れてしまった状態。
<Retroflexion(反転行為)>
怒りは生きるためのエネルギーであるのに、表現しないで自己の内面に押し込めてしまうと、この感情は自分を傷つけてしまう。
<Confluence(無境界)>
自己と他者に境界線を持つと言う意味では「融合」と訳すよりは「無境界」の方が適切。生まれてきた赤ん坊は母親と境界線を持っていない。愛情は他者と融合した無境界の状態から始まるのである。子どもが成長するに従って自分の存在と他者の存在の違いを認識し境界線を引くことが自立することである。
<Deflection(話題転換)>
話題の転換や問題をずらしてしまうこと。核心に触れないようにするために「転換」する。
今日は、午前5時半の「お勤め」から一日が始まりました。さて、今日はどんなことになりますやら…。楽しみです。