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沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム

沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム
日々の暮らしの中で、ちょっと気づいたこと、ほっと一息つけるようなことがらをコラムとしてまとめました。
あなたの「お役立ち」になるかどうか、心許ないですが、興味を持った「カテゴリー」から読んでみてくださいね。

カテゴリーごとに選べます。
選択
フォーカシング
2017/08/03
私のフォーカシング・レッスン〜池見陽氏のワークショップ〜(5)  
2日目の、今回のワークショップとしては2回目のデモ・セッションがあり、シェアの時間の後、「フェルトセンスと感情の見分け方」の話がありました。
「怒り」は「怒り」のまま変化せず、「怒り」などの明確な言葉になっている。つまり、「感情」は単一焦点的なのだ、と。
それに対して、「フェルトセンス」は変わっていく。「怒り」と表現されていたものが「火山」になったり、「死火山ではなく休火山だった…活動するとは全然思っていなかったのに…」と表現されたり。

…今、打っていて、「フェルトセンス」は表現しにくいから、譬えになったりもするんだと気づきました。
一言で言い表せないような微細な感覚を、なんとか既存の言葉で表現しようとするから、譬えで描写するしかないことも多いのですね。
そのものとのキョリがある程度取れていないと、フェルトセンスにはならない、とまとめられました。

先ほどの「死火山ではなく…」はデモ・セッションでのフォーカサーの言葉なのですが、池見さんは、シェアの時に「(それを聞いて)脳細胞が興奮した…おお、まさしく『推進された“だった”』だ!と…」と言われていました。
体験過程で、「今の気づき」が「休火山だった」んだ…というように「過去を変えた」のですね。

30分ずつ各自でフォーカシングをするペア・ワークの後、「感情というのは、フォーカシングではどういう位置付けにあるのか?」という質問が出されました。

暫く考えた後、池見さんは「生きるプロセスの取り残された一部」と答えられました。
たとえば「怒り」は、本当は◯◯さんに理解してほしいのに、そうではない時に湧き上がってくる感情だったりして、それはその人ともっと豊かな関係を築く契機となったりする、と。
「有機体が語る語」という比喩もある、と。
あるいは、『セラピープロセスの小さな一歩』というジェンドリンの著作には「感情は相互作用を狭窄(きょうさく=せばめる)する」とある、とも。

池見さんから、たくさんのものが引き出せた、「いい質問」だったなあと思いました。

さて。残り2時間、となった時点で、デモ・セッションはあと一人、となって。
「セッションを受けたい人」に手を挙げたのは5、6人。公平にじゃんけんして、最後、二人となりました。
ああ!じゃんけんに勝てるかな? と思ったのですが、相手の方が私に譲ってくれました。(後で聞いたら、「気迫負け」したとのこと。…スミマセン…、私、必死の形相だったのかしら…)

「観我フォーカシング」をしましょう、と言われました。
これはある朝、池見さんが瞑想されている時に、ふと思いつかれたものだそうで。
自分のいろんなものを感じている部分に、感謝したり慈悲を送ったりするもの、だそうです。

私はまず、母が浮かびました。それから、その母に対している自分。それから、子ども。それから杏樹(アンジー)。
母に対している自分が「どんな様子をしているか」と言われて、…瞬時に、口をへの字にして、右足首を内側に折り曲げて、着物を着せられて突っ立っている3、4歳の女の子が出てきました。
ああ!と私の口から声が上がりました。
「これは私のインナーチャイルド!…やっぱり出てきたね…」
馴染みを紹介するように池見さんに描写して、…そうそう、母と対していると私のインナーチャイルドが刺激されるんだわ、と自分で確認していました。

池見さんは、フォーカシングでは用いない「ザブトンを置く」ことを、私には勧められたので、(ザブトンを置くということは、そこに、該当する人を置くことなので)イメージし易かった、と思います。
(後で、なぜザブトンを用いたかの質問には、ゲシュタルトをやってる人はザブトンは使い慣れているだろうから、ということでした。)
母や子どもや、それらとのキョリ感も、私がザブトン置く位置で、池見さん自身視覚的に捕らえられた、と思います。

母とのあれこれ、私の中に生まれる葛藤…そんなことをつらつら話しました。
すると…池見さんは、「では、それに『慈悲』を送りましょう」と声を掛けられました。

「私が健やかで幸せでありますように。
私が苦しみから解放されますように…。」

「慈悲の言葉」はこういう言葉なのですが、実はこの言葉は、私は馴染みがありました。
いつだったか…10年ぐらい前に、アルボムッレ・スマナサーラというスリランカ仏教界長老の著書『自分を変える気づきの瞑想法』の中で出会った言葉でした。でもこれは「グィパッサナー瞑想法」の2、3千年前からの「慈しみの言葉」なのですね。

その言葉を何回か繰り返しているうちに、私はじんわり涙が出てきました。
が、なんだかフォーカシングはワアワア泣いてはいけない気がして、静かに留めていました。
そして、母へのざわざわ感は、次第に収まっていきました。

私の中にある、様々な感情。
それら全てを引っくるめて、「健やかで幸せでありますように」「苦しみから解放されますように」。
これは、「祈り」の言葉ですね。
万事手を尽くして、それでもどうにもならない時には、祈るしかない、と思う時があります。
祈りは、「困った時の神頼み」というような安易なものではなく、切実な願い、である気がします。

「慈悲の言葉」を繰り返しながら、「…そうよね…。出来るだけのことはしているよねえ…頑張ってやってるよねえ…私。それでも上手くいかないのなら、それはもう神さまにでも仏さまにでも、お願いするほか手がないよねえ…。」なんて、自分を認めつつ、あとは委ねる気持ちになっていました。
…これが心を穏やかに、心に平安をもたらすのでしょうか…?

心穏やかになった状態で、私の「観我フォーカシング」は終わりました。

時折、池見さんの方を見ると、目を閉じていらっしゃること2回ほど。
でも、セッションに参加していた人からすると、ほとんど目を閉じていらっしゃることがなかったそうです。
…とすると、稀な瞬間にコミットしたのでしょうか?

池見さんは穏やかで…私が自由にあれこれワークするのを一緒にその場にいてくれた、ような感じ。
「慈悲」を送る声掛けも、絶妙なタイミングだった…気がする。
母に対する感情、それに反応する私自身に対する苛立たしさ、に入る前の、クールダウンさせるかのようなタイミングで。

「寄り添う」ってこういう風なのをいうのですね。
微細な私の心の動きを感じ取って、必要なものを必要なタイミングで差し出す。
それでいて、自分に無理がない状態でいること。
確かに。毎朝の瞑想は必要だわ。
ワークショップがその関係で午後からになっても、仕方のないことだったんだ…。

あっという間の2日間でした。ですが、とても濃密な時間でした。
1年半前の私の「未完了の問題(unfinished work)は、完了しました。

画像は、最近「先生、結婚したよ〜」と幸せそうな写真を送ってきてくれた教え子に送った、お祝いのプリザーブドフラワー。

フォーカシング
2017/08/02
私のフォーカシング・レッスン〜池見陽氏のワークショップ〜(4)  
最初のセッションの後、「クリアリング ア スペース」の説明がありました。
「クリアリング ア スペース」とはフォーカシングの技法の一つなのですが、どこから来たものかはわからない、と言われました。
フォーカシングが影響を受けた「現象学」では「括弧に括る」というそうです。
つまりは、いろんな「気がかり」から間を置くこと。
「間が置けない人を『間抜け』と言うんですよ」という余談付きの説明に、なるほど! と一同うなづきました。

「クリアリング ア スペース」のやり方(いろんなやり方があるうちの1つ)

1 「そのことを思うと、どんな感じがするか? 感じてみて」と「ことがら+感じ」を出してもらう。(フェルトセンスとして感じてみる)

2 「そのことを、ちょっとの間、置いておくとしたら、どこがいいでしょう?」と、ちょうどいい場所を見つけてあげるよう促す。見える場所の方がいい場合もそうでない場合もある。「捨てる」類いはいまくいかない。たとえば、海に捨てたとしたも、また、海岸に打ち上げられたり、と返って来たりする。どんな感情も「自分の気持ち」だから大切に扱う。(適切なキョリを見つける)

3 「他にありますか?」という声かけで、次々と自分の「気がかり」に対して、適切に置ける場所を探していく。

「どうしても置けない場合は、どうすればいいですか?」という質問がありました。
その場合は「置けないことに気づく」ことが大事で、「それを置けない自分はどんな自分?」と「観我(かんが)」に向かうか、「それはどこに行きたがっていますか?」と「もの」に主導権を渡す。
それでも置けない場合は、「そんな気持ちがあったことに気づいておきましょう」と「置けない」自分を受け入れる。

「クリアリング ア スペース」を行うと、出してもらう「ことがら」の、具体的な中身が問いかける人にわからなくても、その「ことがら」を出している人は、それとのつきあい方が変わるので、問題そのものが変わる。
つまり、「悩み」とは「悩むこと」ではなく、それとのキョリが取れないことが問題なのだ、と。

「クリアリング ア スペース」とは、「心の中を片付けて、空間を作ること」である、と。
高野山でも「悟りを開きたい人は部屋を片付けなさい」と言われるそうな。で、実際に部屋の片付けをするそうです。
心理現象と物理現象は繋がっているのだな、と思いました。
確かに。散らかった部屋にいると心が荒んでいくし、精神衛生上も良くないんだ、と。

「クリアリング ア スペース」を初めて私に教えてくださったのは有村凛さんでしたけど、その時は画用紙を使って、でした。
私は、視覚化されるこの方法が、結構気に入っているのですが、画用紙がない場合でも「クリアリング ア スペース」が出来るんだなあ、というのは発見でした。
イメージ化が苦手な人には、視覚化できる方がやりやすいかもしれません。
人にもよるし、状況にもよるんですが、やり方が増えたのは嬉しいことです。

さて。初日はここまでで、2日目の最初の時間に、ジェンドリンの「フォーカシング 6ステップ」の説明がありました。

ジェンドリンの「フォーカシング6ステップ」

1 「クリアリング ア スペース」
2 フェルトセンス
3 ハンドル(見出し・手がかり)表現をみつける
   (ハンドル表現=この言葉で表現すると、なんとか全体がつかめる、という言葉)
4 ハンドル表現をリゾネイト(響かせる・確保する)する
5 (理解のための)問いかけ(6つ)(「もやもや」はフェルトセンスの例)…その場にふさわしいものを選んで使う
   ① この「もやもや」はあなたに何を伝えているのでしょうか?
   ② この「もやもや」はいったい何でしょう?
   ③ その状況の何が「もやもや」みたいなのでしょう?
   ④ この「もやもや」は何を必要としているのでしょう?
   ⑤ この「もやもや」とかけて、その状況ととく、その心は? (なぞかけ)
   ⑥ 「もやもや」と一緒にいましょう。何か浮かんできますか?
6 受け止める

この6ステップは直線的に進むのではなく、2→5については、何回かグルグル回るイメージ。
そして、この2→5のサイクルを回すことが大事で、うまく回らない時に、「5」の6つの問いかけがあるのだと。

フェルトセンスが強い感情となってきたら、少し遠ざける。
その時の声掛けは「ちょっと遠目に見てみましょう」。
他に…「この辛さは、私にとってどんな意味があったのだろう?」「この辛さはあなたに何を伝えたいのだろう?」などの声掛けで、サイクルが回る、と。

内省力が弱い人には「プレセラピー」が必要である、とも言われました。
「感じること」を予め、「教育する」のだそうです。

池見先生は『傾聴 心理臨床学 アップデートとフォーカシング』という最新のご著書(2016年3月)のpp.130-131をコピーして配布してくださったのですが、そこには「5つの問いかけ」が記載されていました。
…つまり、出版されてから、この半年足らずで、6つ目の問いかけが増えたのですね。
常に「より良いもの」を求める、先生の姿勢を感じました。

さすがに、今日はここまで、でしょうね。
画像は2日目の池見陽氏。グラサン・短パン姿での登場にちょっとびっくり。

フォーカシング
2017/08/01
私のフォーカシング・レッスン〜池見陽氏のワークショップ〜(3)  
前回は、アニマル=クロッシングというペア・ワークが私の中でどのように進行していったか、についてレポートしたところで終わりました。

そのペア・ワークを終えたところで、次の「デモ・セッション」に入る前にフォーカシングについての説明がありました。
フォーカシングでは「凍りついた全体性」という言い方があり、それは「構造拘束」を意味する、と。
(「構造拘束」という言葉自体が馴染みのないものだったので、調べてみたら、ジェンドリンが1961年に、「2つに分類される体験様式」の1つである、とし、それぞれが精神健康に異なる影響を及ぼす、としたもの。
「ネガティブな体験内容が反復し、暗黙の機能が停止している様式」と定義される。ちなみにもう一つは「過程進行中の体験様式」)
ゲシュタルト療法で近い概念は「凍りついた炎」。

以下、ゲシュタルト療法とフォーカシングの違いを際立たせるような話が続きます。
それは、ゲシュタルトとフォーカシングの違いは何なんだろう? と思う私にとって、とても刺激的なことでした。

フォーカシングにおいて、聴く側は追体験する。(池見さんは「共感」という言葉に違和感をお持ちで、「追体験」という語を用いる、と言われました。)
それは、言い換えると「受容的で共感的で、自己一致している状態」。

そして、「再帰性」が起こる。
それは、言葉にした途端、違和感を感じて「そうではないことがわかる」こと。
たとえば、「私はキリンです」といった途端に、いや、そうじゃない、とわかって、別の「何か」を探り始める…ことの連続で、アニ=クロは進んでいったのではないか、と。

「リフレクション」(=相手の言った言葉をそのまま伝え直すこと)は、「傾聴」して「受容」していることを意味するのではなくて、「再帰性」を確認するためにあるのだ、と。
つまりは、「あなたの言ったことを私は聴いていますよ」という意味ではなく、「あなたは◯◯と言いましたが、その言葉でしっくりきますか?」という確認しているのだということ。

…これは、衝撃的でした。そうなのか、と。そうか、「おうむ返し」じゃダメなんだ、と。
この確認過程が、「一緒にあなたのモヤモヤ(=言葉にしにくい、フェルトセンス)の正体を探っていきましょう」になるのか、と。

「何かワザを仕掛けていくのではなくて、その人の中にフォーカシングが起こるように、一緒に考えていく」のだと言われました。その人の中に答えはある、その人の感じる中にヒントがある、という立場はゲシュタルトと変わらない、と。
自分の問題にならないと解決しないので、解決してあげるのではなく、一緒に考えるのだ、と。
だから、できるだけ、まだ言葉にならないところを探るのだ、と。

そしてデモ・セッションに入りました。

セッション後に、3つのことを話されました。
1つは、「掛け合わせて考える」ということ。
セッションの中で、「掛け合わされた」ものは、池見さんと、(セッションを受けた)フォーカサー。
途中、池見さんから「蹴散らしたいんだけど、全然そんなことを考えてもないように座っているんじゃない?」という言葉掛けがあったのだけど、これは、外れてもいい、掛け合わせたらどうなる? という気持ちが池見さんにあったそうです。

一見、「ワザを仕掛ける」風にも見えますが、セッションをしていて、池見さんに自然に湧き起こってきたことで、それに対して素直に「自己一致」させて出てきた言葉なんだろう、と受け取りました。
そしてそれはアニ=クロでも同じで、あのワークは何をしているのかというと、動物と自分を掛け合わせて考えているのだ、と。
…それは、自分の状態を捉えようとする「過程」(=プロセス)なのですね。

もう1つは、「推進された“だった”(Carried foward “was”)」
体験過程で、過去がクリエイトされる(創り出される)ということ。
今の気づきが過去を変えるということ。
ああ、そうだったんだ…と、過去の持つ意味が変わるのですね。

もう1つは、「体験的キョリ」。
近すぎても遠すぎてもダメで、近すぎると感情が先立つし、遠すぎると何も感じない。
だから、セッションでは遠すぎると近づけるようにするし、近すぎると遠ざける。
「今のイライラ」にこだわるのではなく、その先にあるものを見る。
つまりは、インプロセス(=進行中)であることが大事で、セッションはプロセスが止まっているか動いているかを見る、のだと。
インプロセスは仮設の連続で、仮説は常に動く、と。

シリーズ5回で終わる予定が…終わりそうにない不安を抱えながら、ひとまず今日はここまで。
(初日のまとめが、まだ終わっていません…)

画像は富良野の富田ファームで見かけたハンギングバスケット。
あれかこれか、ちょうどゲシュタルトとフォーカシングを釣り比べているようで、選びました。

フォーカシング
2017/07/31
私のフォーカシング・レッスン〜池見陽氏のワークショップ〜(2)  
前回の続きです。
15分の休憩後、「アニマル=クロッシング(Crossing with Animals)」という「ペア・ワーク」を行うことを池見陽氏から提案されました。

「アニ=クロ(アニマル=クロッシング)」とは、どんなものか?
・最近の自分の生きているありさまを振り返って、動物で表す
・たとえば、「私は、荷物を運ぶのに疲れた蟻です。」「私は、アスファルトの道路に出てきたミミズです。」など。
・その動物は、途中で変わってきてもOK!
・また、現実にありえないことでもOK! たとえば、飛ぶはずのないものが空を飛んでいてもいい。
・人格理論を挟み込まないこと。たとえば、「猫が出てきた、ということは、自己愛を表していますね」というような決めつけは、NG。

始めるにあたって、先に「体験過程」の説明がありました。

「体験過程」
「体験」→「表現」→「理解」→「体験」→「表現」→「理解」→「体験」→
というように、「体験」は「過程」を辿り、どんどん変わっていく。
ぐるぐる回りながら、意味が発生していく。

・人の体験は「からだ的」(=身体性を持っている)
・「実存」はからだで感じられている(ジェンドリンの言葉)(「実存」=私の生きているさま)
・体験には生の可能性が暗示されている。(なぜなら、「感じていることは心のメッセージ」で、人の体験は精密だから。)

ペアになって、15分ずつ。

私は、チーターになって、攻撃するというより防御していました。
襲ってくるものに対して、身を守るために噛み付く、というか。
それから、例に出されたものが引っかかっていたようで、アスファルトに出たミミズになっていました。
アスファルトは熱くて。
「アッチッチ」とぴょんぴょん跳ねながら、ミミズは一旦出てきたら戻ることは出来ないんだよね、と考えていました。
アスファルトには割れ目がないようだけど、でも! アスファルトの割れ目から出てきたのなら、きっとどこかにまた別の割れ目があるハズ、と思って探しました。
あ、あった! とその割れ目めがけて入っていったら、からだは土でぎゅうぎゅう押されていて。
なんか息苦しいなと思って、もっと伸び伸び息したい!と思って。
…飛行機の翼になっていました。

でも…飛行機の翼は動物ではないよね⁉ってことで、う〜ん…と唸っていたら、サバンナのキリンになっていました。
風が耳の横をすり抜けて行きました。
おお!キリンさん! やっぱり好きなものが出てくるんだね、と思っていたら、夕日がどーんと沈み出して。
しばらくぼんやりその夕日が沈むのを眺めてました。

あっと気づいたら、真っ暗で。サバンナの夜は怖くて。
何か襲ってくるかもしれない。
夜でも怖くないのは…と思っていたら、黒猫になっていました。
辺りは暗い中、塀の上をしっぽをピンと立てて、しゃなりしゃなりと歩いていました。

私のアニ=クロはこんな風。
…最初から気づきましたよ。
襲ってくるものに対して防御するために噛み付いている私。
まさしく、母に向かって噛み付いている私。

土の中が不自由で、飛び出した先が焼け付いたアスファルト。
これはまさしく、広島を引き上げて帰ってきた私。
こんなつもりじゃなかった…けど、戻るに戻れない。
アスファルトは熱いから、生存かけて別の割れ目に入ったら、馴染みのある息苦しさ。

飛びたいんだけど、私は翼にはなれない。
…で、私に翼はないから、ゆったりとサバンナを駆けるキリンになっていた。
いい感じ…だったのですが、それも日があるうちみたいで。
雄大な夕日が沈むのを、吸い込まれるように眺めてたというのに、真っ暗になったら怖くてたまらなくて。
サバンナも私の生きる場所ではないようで。

そしたら、街の路地にある塀の上を歩く黒猫になっていて。
一匹、でした。
月が出ていたかどうかはわからない。
でも、程よい薄暗さの中、不安もなく塀の上を、ちょっと気取って歩いていた。

ああ!こんな風に、私は好きな時間に好きな場所にいたいんだ! とわかりました。

いつ、どこで、何をしていてもいい!という感覚。
私は自由なんだ!とふつふつと身体中から笑いが込み上げてくるような感覚。
…久しく忘れていた…。

そう、ね。
まさしく、「最近の私の生きているありさま」。
自分の置かれている状況を、外から眺めることができました。

次回に続きます。

画像は、ここはやっぱり飛行機の翼、で。旭川に飛んだ時のもの。

フォーカシング
2017/07/30
私のフォーカシング・レッスン〜池見陽氏のワークショップ〜(1)  
昨日は、GNK主催の池見陽氏によるフォーカシングのワークショップ(2日間)の初日でした。
池見陽氏との出会いは、一年半前、心理系大学院の受験を考えていた時に、関西大学の大学院説明会に参加して、でした。
臨床心理士資格を取ろうと考えていた私は、どこの大学院にしようか考えあぐねて、百武正嗣さんが「フォーカシングの池見さんは僕に近いんだよね」と言った一言で、どんな人なんだろうかと会いに行ったのです。(池見陽氏は関西大学大学院の教授)。

会いに行くにあたって、フォーカシングってどんなものだろうと『心のメッセージを聴く』(講談社新書)も、『僕のフォーカシング=カウンセリングーひとときの生を言い表すー』も買って読みました。
アン・ワンザーコーネルの『やさしいフォーカシングーじぶんでできる心の処方ー』も買って読みました。

関西大学大学院の説明も聞き、「青空フォーカシング」も申し込んで参加し、で、私は関西大学への受験をやめたのです。

いえ、池見先生は、素敵な人だなあと思いました。
けれど、ゲシュタルト療法のプレトレーニング60時間を終えたばかりで、まだ「ゲシュタルトってなんだろう?」がつかめていない状態でフォーカシングに走ったら、訳が分からなくなりそうだ、と思ったからです。
もうちょっと、「ゲシュタルトってなに?」がつかめてからにしようと、断念しました。

一旦、「関西大学」受験を考えたので、関大の授業料は2年間で280万円程だったので、なんかタガがはずれたのか、京都文教大学の授業料も同じぐらい高かったのですが、まあ、いいか、と単位等履修生になりました。
京都文教大学への道を開いたのは、関西大学受験を考えたこと、ということになります。

まあ、結局は、京都文教大学への進学も取りやめることにするのですが。

そういった「因縁」のある池見陽氏のワークショップ、というので、心待ちにしていました。
一年半前と違って、私はフォーカシングをどんな風に受け止めるのだろうか? が知りたかったのです。

最初の1時間半は、「フォーカシングとゲシュタルトはどういう位置関係?」の解説。
1950年〜70年の「ヒューマニスティック・サイコロジー」と呼ばれるグループの仲間だと言われました。(池見氏は「人間らしい心理学」と訳されているそうです)
「人間らしい」とは、統計や動物実験からは遠い、人間とは何かを根底にした、という意味で用いられている、とのこと。
その背後の思想として、1つは人種差別により人間を人間としてみないことへの疑問を呈した「人権運動の流れ」があり、1つは、60年代のベトナム戦争での非人間的な兵士体験がある、とのことでした。

その「人間らしい心理学」のグループに入るのは、1つはカール・ロジャーズの「パーソン・センタード・アプローチ」、1つはフリッツ・パールズの「ゲシュタルト・セラピー」、そしてアブラハム・マズローの「何も不足していなくとも、人には自己実現欲求がある」とした、マズロー心理学。(マズローは、心理療法家ではなかったそう)
そのうちのカール・ロジャーズの「パーソン・センタード・アプローチ」から生まれた、ユージン・ジェンドリンの「フォーカシング」。
で、最近は、フォーカシングとゲシュタルト療法を合わせたEFT(Emotion Focused Therapy)が取り沙汰されているそうです。
…つまりは、ゲシュタルトとフォーカシングは近しい関係にある、とのこと。

ジェンドリンはそもそも哲学者で、フォーカシングを全く知らなくても「ジェンドリン哲学」は成立する、と。
そもそもロジャーズは「(カウンセラーは)カウンセリングの中で、人がフォーカスすること(=フォーカシング)を援助している」と言われたらしくて、それをもっと明確にしたのがフォーカシング。
だから、フォーカシングのワークは「人の中で起こっていることを援助する」(=自分の中で起こっていることに気づかせてあげる)ものなのだ、と。

以下、池見陽氏の言葉を羅列します。
・フォーカシングでとても大切にしているのは、人の体験は言葉と論理によって構成されていない、ということ
・「今、この場で何を体験していますか?」「どのように感じていますか?」と訊かれてもすぐには答えられない。そこに何かあるが、なかなか言葉で言えない。でも、なかなか言葉で言えないそれをなんとか言葉にすることで、そこに新しい「理解」というものが生じる
・なかなか言葉にできないものを言葉にすることで新しい発見につながる
・人が生きている実態は、言葉や論理でできていない
・「あなたはどんな人ですか?」「僕はどんな人ですか?」は、一言では言えない。新しい言葉で表現できたら、新しい関係ができる
・すごく言いにくい(=フェルトセンス)、そこと付き合うことで新しい関係を作り上げる
・存在は「前存在論的」である」とジェンドリンは言った。(「存在論」とは「〜とは何か」を問うもの。「前存在論的」とは、存在論に先立って成立している、ということ。「〜とは何か」を問う前に、既に存在している、ということ。)
・人は言葉にできない何か(=フェルトセンス)に触れると、創造的になれる

長くなったので、続きは次回。
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