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  1. コラム
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沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム

沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム
日々の暮らしの中で、ちょっと気づいたこと、ほっと一息つけるようなことがらをコラムとしてまとめました。
あなたの「お役立ち」になるかどうか、心許ないですが、興味を持った「カテゴリー」から読んでみてくださいね。

カテゴリーごとに選べます。
選択
ゲシュタルト療法
2017/02/07
感じる心を取り戻す〜谷川俊太郎の詩「生きる」〜  
 「生きる」         谷川俊太郎

  生きているということ
  いま生きているということ
  それはのどがかわくということ
  木もれ陽がまぶしいということ
  ふっと或るメロディを思い出すということ
  くしゃみすること
  あなたと手をつなぐこと
 
  生きているということ
  いま生きているということ
  それはミニスカート
  それはプラネタリウム
  それはヨハン・シュトラウス
  それはピカソ
  それはアルプス
  すべての美しいものに出会うということ
  そして
  かくされた悪を注意深くこばむこと
 
  生きているということ
  いま生きているということ
  泣けるということ
  笑えるということ
  怒れるということ
  自由ということ
 
  生きているということ
  いま生きているということ
  いま遠くで犬が吠えるということ
  いま地球が廻っているということ
  いまどこかで産声があがるということ
  いまどこかで兵士が傷つくということ
  いまぶらんこがゆれているということ
  いまいまが過ぎてゆくこと
 
  生きているということ
  いま生きているということ
  鳥ははばたくということ
  海はとどろくということ
  かたつむりははうということ
  人は愛するということ
  あなたの手のぬくみ
  いのちということ (詩集『うつむく青年』1971年刊)


「読書への誘い」第4号で紹介した詩です。

生きている実感というのは、食べものを口にして「ああ、美味しい!」と感じたり、好きな音楽を聴いてそのメロディーを身体中一杯にしたり、大切な友人と一緒にいて、穏やかな時間が流れるのを感じたり、…つまりは、自分の感情を感じたままに表現できるときに生まれるものではないかと思います。

何か辛い経験をして、しかも、辛いと感じることまでも自分に禁じていたら、何か自分が自分でないような、生きていること自体が苦痛になってしまいます。

ゲシュタルト療法を学んで知ったことのひとつに、自分が辛い思いをする原因となったことや人に、ちゃんと怒りを向けないと、その怒りは行き場をなくし、攻撃は自分自身に向かい、自分を責めて自己嫌悪に陥ったり、胃炎などの痛みを生じさせる、ということです。

現実生活で実際に相手を責めるということではなく、ワークの中で、きちんと自分の感情に向き合い、怒りや悲しみといった、一般的に「負の感情」とされているものの存在をきちんと認め、受け入れること。
そうすることでその感情を固着させることなく流していく。流すことで怒りや悲しみが消えていくというものです。

自分の感情を感じなくする方法は、大体は身体を固くして、自分の感情を自分の身体の外に出すこと。それが分かるのは、私自身がそうやって「感じなく」して自分を守ってきた記憶があるからです。

初めて人前で泣けた、と言ったNさん。
ゆっくりと、あなたのペースで、あなたの感情を取り戻し、そして解き放っていきましょう。
大丈夫、私があなたのそばにいます。あなたが自分で「もう大丈夫」と思えるまで。

<沙羅Saraのほっと一息 詩の時間>
第二話 「生きる」  https://youtu.be/tbPtF3FJ-Bg

絵本の世界
2017/02/06
のさか ゆうさく作『まるくなった まあるくなった』  
表紙の絵は毛糸玉を引き寄せている猫の前足。肉球がなんか可愛くて、どんなお話? とページをめくると、次のような言葉が続きます。

 にわの いしころ
 もちあげてみたら

 もぞ むぞ
 むぞ もぞ
 だんごむし

 ゆびで つんつん
 つついてみたら

 まるくなった
 まあるくなった
 こんころ ころろ
 てのひら くすぐったい

こどもの好きなだんご虫。まるくってちっちゃくてかわいいんだけど、確かフンを食べて生きてた。なのに、うちの子ときたら、てのひらに乗っけてただんご虫が見当たらないと思うと…「Kちゃん!お口、あーんしてごらん!」舌の上には、たくさんのだんご虫がもぞもぞ動いてた。…というような思い出があります。

次から次へと「まあるくなった」ものが続くのですが、最後は…

 かみふうせん
 ふーっと ふいたら

 まるくなった
 まあるくなった
 ふうわり ぱーん
 ふうわり ぽーん

 ふんわり おちて
 まろのうえ

 まろは めざめて
 あくびした

 でもまた ほらね

 まるくなった
 まあるくなった
 ねこの まろ

と、表紙に出てきた前足の持ち主「まろ」が登場して終わります。

「もぞむぞ むぞもぞ」とか「つんつん」「こんころ ころろ」など擬態語(ぎたいご・「のろのろ」など、様子を表したもの)・擬声語(ぎせいご・「ピューピュー」など、実際の音から様子を表したもの)(併せて「オノマトペ」といいます)の響きが面白くて、楽しくお話が進んでいくのですが、最後、なんとなく「まろ」が出てきたところで、限りなく「まろ」への愛情を感じてしまって、まるでこのお話は「まろ」のために作られたかのように思えました。薄い二つ折の紙に「まろのこと」という作者の短い文章が載せられていました。…亡くなった「まろ」を想って作られたとのことでした。

…やっぱり、そうだったんだ…。「まろ」の肉球、「まろ」のあくびをした時のまあるい背中、しっぽ。すべてすべて懐かしくて恋しくて。そんな作者の想いが溢れてきて、そっと涙したことでした。(年少版こどものとも 1997年8月 福音館書店)

詩の世界
2017/02/05
人を好きになる気持ち〜安水稔和の詩「君はかわいいと」〜  
バレンタインデーまで10日を切りました。女の子が男の子に告白する日、であるとか、告白のしるしにチョコレートをあげる、とかは日本だけの習慣ですが、(元々は恋人どうしがお互いに何か贈り物をする、というものだったらしいですが)、父も亡くなり、退職して「職場の同僚」もいなくなった私には、今年はチョコレートをあげる相手がちょっと見当たりません。でも巷ではバレンタインデー用の商品が溢れかえっていて、ドキドキ、胸キュンキュンの女の子たちもいるのかなあと思うとちょっと微笑ましいです。昨今は若い人たちが「恋愛しなくなった」とも聞くのですが…。

さて今日は、「読書への誘い」の第8号で紹介した、ちょっと可愛い、男の子の詩です。
続き
言葉
2017/02/04
霞たち木の芽もはるの雪降れば  
節分の翌日が立春です。この日から「春」とされるのですが、寒くてなかなか春の訪れは感じられません。立春の歌ではないのですが、「古今和歌集」から私の好きな春の歌を。

    雪の降りけるを よめる      紀貫之  (春上9)
 霞たち木の芽もはるの雪降れば 花なき里も花ぞ散りける

「雪の降りけるを よめる」というのは詞書き(ことばがき)といって、作歌状況やテーマなどを説明したものです。「はる」は掛詞(かけことば)で、「木の芽が張る」と「春の雪」の2つの意味を掛けています。「霞たち木の芽も」は「春」を導くための序詞(じょことば)です。現代語訳すると、

 霞がかって、木の芽もふっくら芽吹く春、そんな春に雪が降るので、まだ花が咲かない里にも、花が散るように見えることだよ

というようなところですか。雪を花に見立てる、「見立て」の技法も使われています。…文法事項として、「降れば」は「降る」の已然形+助詞の「ば」で、確定条件(〜なので、と訳す)というようなことがあります。「ぞ〜ける」は「係り結び」といって、「けり」が「連体形」の「ける」になり、強調表現を表します。「けり」の意味は「過去」ではなく、「〜だなあ」という「詠嘆(えいたん)」です。

…なんだか古典の授業のようで、頭が痛くなった方は読み飛ばしてくださいね。

雪を花に見立てるなんて、無理がある、不自然だと、後世、「写実主義」を唱えた正岡子規に古今和歌集は否定されました。でも、2日ほど前、朝、アンジーの散歩で外に出たら、ちらちらと雪が舞って、それがなんともかわいい感じで、本当に小さな花びらが舞っているように見えました。

春先、ちらつく雪を花に見立てるのは、春を待ち望む気持ちの表れかもしれません。

そう考えると、何も目に見えるものを写し取るのが「写実」ではなく、心に見えるものを写し取ってもいいのかもしれない。いやむしろ、心に見えるものを大切にした方がいいのではないか…。『星の王子さま』にも「大切なものは目に見えないんだよ」とあったような…。

そんなことをつらつら考えた今朝でした。

母との暮らし
2017/02/03
節分の日  
今日2月3日は節分、豆まきですね。母は今日までに、いそいそと豆やらを用意して、それはいいのですが、豆には鬼の面がおまけについてきて。そのお面で、母は杏樹(アンジー)で(!)遊ぶのです。(アンジーと遊ぶのではなく。)

「アンジー!」と呼んだかと思うとさっと鬼の面を取りだし被るものだから、アンジーが怖がって「うおん、うおん…」いいながら後ずさりして逃げていきます。それを見て母は面を外し、「アンジー、ばあちゃんだよ、鬼じゃないよ。」と大笑いするのです。この2〜3日。

「ばあちゃん、それはいじめだよ(怒)!」と言うのですが、なかなか止めません。ホントにまあ、子どもなんだから!

また、母はおやつとしてミルク風味のガム(骨のように両端をねじったもの)をあげるのですが、アンジーはそのガムを口で放り投げて十分遊んでからゆっくり食べ始めます。時にはテーブルなどの下にガムが入り込むことがあって、どうやってもアンジーの手では取れないことがあります。そうすると、一生懸命、「ここだよ!ここにあるんだけど、取ってよ!」と言いに来ます。(時にはそれが、ボールの時もあります。)母は長い1メートルぐらいの竹差しを持ってきて、なかなか取れないふりをします。「アンジー、もうちょっとなんやけど、難しいわ…」とかなんとか言いながら、じらします。アンジーも心配そうに、ものが滑り込んだ先と、母の顔を交互に見ています。そのうち母が竹差しで出してやり、「アンジー、やっと取れたわ」などと言います。

なんで、すぐに取ってやらないのか? と聞くと「私もちょっと、楽しみたいやん。なかなか取れんのが、やっと取れたら、アンジーものすごく感謝してペロペロなめるんよ。」

私はものすごく不愉快になります。…多分「あんたのために頑張ってるんよ」が嫌なんだと思います。

「『あなたのため』は『お為ごかし』で本当は言ってる本人のため」と私は昔から思ってきました。母があまりにも「おまえのために〜」と言い過ぎたので。学校に勤めていた時も「生徒のため」という言葉が嫌いでした。だから私は誰かに「あなたのため」と言ったことはありません。自分が言われて苦しい思いをしてきたので。言ったとしてもせいぜい「私はこうした方がいいと思うけど…、」です。そして「自分で決めてね」を付け加えます。

今日になって、母は「もうアンジー、怖がらさんとくわ。かわいそうやもんね。」と言い出しました。やれやれ、ほっとしながら、一方で、母がアンジーをからかっているだけで、私は何もこんなに反応しなくていいのに…とも思いました。「過剰反応だわ」と。まあ…私のインナーチャイルドが反応したんですね。アンジーを抱き上げながら「大丈夫だからね。何も怖いことないよ。」と、よしよししながら、私の心のザワザワも落ち着いていきました。
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