節分の翌日が立春です。この日から「春」とされるのですが、寒くてなかなか春の訪れは感じられません。立春の歌ではないのですが、「古今和歌集」から私の好きな春の歌を。
雪の降りけるを よめる 紀貫之 (春上9)
霞たち木の芽もはるの雪降れば 花なき里も花ぞ散りける
「雪の降りけるを よめる」というのは詞書き(ことばがき)といって、作歌状況やテーマなどを説明したものです。「はる」は掛詞(かけことば)で、「木の芽が張る」と「春の雪」の2つの意味を掛けています。「霞たち木の芽も」は「春」を導くための序詞(じょことば)です。現代語訳すると、
霞がかって、木の芽もふっくら芽吹く春、そんな春に雪が降るので、まだ花が咲かない里にも、花が散るように見えることだよ
というようなところですか。雪を花に見立てる、「見立て」の技法も使われています。…文法事項として、「降れば」は「降る」の已然形+助詞の「ば」で、確定条件(〜なので、と訳す)というようなことがあります。「ぞ〜ける」は「係り結び」といって、「けり」が「連体形」の「ける」になり、強調表現を表します。「けり」の意味は「過去」ではなく、「〜だなあ」という「詠嘆(えいたん)」です。
…なんだか古典の授業のようで、頭が痛くなった方は読み飛ばしてくださいね。
雪を花に見立てるなんて、無理がある、不自然だと、後世、「写実主義」を唱えた正岡子規に古今和歌集は否定されました。でも、2日ほど前、朝、アンジーの散歩で外に出たら、ちらちらと雪が舞って、それがなんともかわいい感じで、本当に小さな花びらが舞っているように見えました。
春先、ちらつく雪を花に見立てるのは、春を待ち望む気持ちの表れかもしれません。
そう考えると、何も目に見えるものを写し取るのが「写実」ではなく、心に見えるものを写し取ってもいいのかもしれない。いやむしろ、心に見えるものを大切にした方がいいのではないか…。『星の王子さま』にも「大切なものは目に見えないんだよ」とあったような…。
そんなことをつらつら考えた今朝でした。