「北の海」 中原 中也
海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。
曇つた北海の空の下、
浪はところどころ歯をむいて、
空を呪(のろ)つてゐるのです。
いつはてるとも知れない呪。
海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。
(詩集『在りし日の歌』・1938年刊)
この詩を読むと、いつも新古今和歌集の藤原定家の歌を思い出します。
「見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」
(見渡すと、色美しい春の桜も秋の紅葉もなかったのだなあ。この海辺の苫吹きの小屋のあたりの寂しい秋の夕暮れは。)
「三夕(さんせき)の歌」(=「秋の夕暮れ」で終わる有名な三首)の一つですが、この歌の優れているところは、花(=桜)や紅葉、つまり春秋の華やかな風景を、一旦映像として見せておきながら、それを否定するところにあるというのです。
桜やもみじの色鮮やかな風景を思い出させ、そして「なかりけり」で、それらを打ち消す。
色鮮やかな風景を残像として残しながら、それらが目の前にはないことで、一層、侘しさや寂しさが増す効果がある、と。
中也の「北の湖」も同様に、人魚の映像を見せておきながら、それを打ち消す。
そうすると、期待しただけ侘しさや無念さが残る、感じがします。
人魚のいる海は、なんとなく波も穏やかで、華やかな感じがします。
人魚が奏でる琴の音(ね)も、人魚が歌う歌も聞こえてくるかもしれない。
日が差していて、空は青くて、楽園(パラダイス)のような。
でも「海にゐるのは、/あれは、浪ばかり。」となると…、日も差さず、「曇つた北海の空の下、/浪はところどころ歯をむいて、/空を呪(のろ)つてゐるのです。」ということになる。
…何か、中也の絶望的な思いがそこに感じられます。
代々の医者の家に生まれ、期待されて育ち、でも幼い弟の死をきっかけに文学に目覚め、「神童」から「劣等生」へ。
ついに地元の(旧制)中学を落第してしまい、世間体が悪いということで京都の立命館中学にやられます。
そこでダダイズムと出会い…女優の長谷川摂子と出会って同棲し、小林秀雄とも出会い、摂子が小林秀雄の元へ去り…。
26歳で結婚もし、子どもも生まれるのですが、その子も2歳の時に亡くなり、そして、30歳で自分の死を迎える。
思うような人生ではなかった、のでしょうか。
でも、逆に「思うような人生」ってなんだろう?
自分が願うようなことが連続して起こる人生?
でも…欲には限りがない気もするし。「こうありたい」が叶って、それで満足する、ということはあまりなくて「もっと、もっと」を要求し始めて、いつまでも「飢餓状態」かもしれない。
…それは苦しいね。
海に行ったら、波が歯を向いていた。…でも、それは、「曇った北海の空」を見たらわかっていることかも。
そんな時には、海に行かない、という選択をしてもいいかもしれません。
気を滅入らせるもの、見ると心が落ち込んでしまうもの、それらは、自分の心の状態を察知して、避けたほうがいい。
と、今の私は思います。
状態の悪い「自分」と付き合うには、工夫がいるような気がします。
…でも、いつまでも、同じ状態ではないでしょうから。
自分の心を見つめることの大切さを思います。
画像は、これも10年以上前の信楽の夏の夕暮れ。電球色が温かみを感じさせます。
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