篠栗での「お遍路体験」で訪れたお寺に「三角寺」があって、そこにはトイレに置く「お札」が売られていました。
何の気なしにそのお札を見た私は、そこに描かれていた神さまがなんだか気になって。
それでつい買って帰ることにしました。
「烏枢沙摩大明王」というお名前の神さまで、ご真言は「おんくろだなう うんじゃく」。
便器の上に乗っかって、踊るようなお姿で。
下の方には何やら言葉が書いてあって。
「大小便時 当願衆生 蠲除煩悩 滅除罪法」
う〜ん…、「大小便時、当(まさ)に、衆生の煩悩を蠲除(けんじょ)し、罪法を滅除せんと願ふべし」かな?
「当」は、漢文訓読では再読文字で、「当に〜べし」。「当然〜すべきだ」となります。
となると、トイレで用を足すたびに「衆生=多くの人が、煩悩(思い煩うこと)を取り除き(洗い清め)、罪を滅除(根絶やし)する」ことを当然、願うべきだ、となりますか…。
そうか…トイレの神さまって、神さまが何かしてくださる、というのではなく、
そのトイレを使う人が、修行の一環として願いながら、用を足す、ということだったんだ! と発見して。
何やら考え込んでしまいました。
…そうかもしれない。
用を足す度ごとに、自分も含めた「人」の幸せを願うのは、それはそれでいいことかもしれない。
ボイスアートのまやはるこ先生も「お辞儀呼吸法」時に、「息をすること、食べること、排泄することは、他の誰にも代わってもらうことはできません」という声かけをされるけど、
まさにその通りで。
人は自分で排泄の処理ができない状態で生まれてきて。
そして、老いて、自分で排泄の処理ができない状態で死んでいく。
それを考えると、今、自分で排泄の処理ができるというのは、ありがたいことで。
ありがたいなあと思うと、人の幸せも難なく願えて。
という毎日です。
画像は、トイレの神さまと、大小の「飾りタイル」。
ついつい、こういう風な「小物」を集めてしまって、で、片付かないのだけれど、まあ、しょうがないですね。