ジープ島なる名前を知ったのは、前回7月18日のボイスアートのレッスンで。
まやはるこ先生が4年前に行かれたという直径35メートル、1周111メートルの小さな島。
その島の写真がとても印象的で。
昨日のレッスンで写真をねだって、いただきました。
全く何も知らなかったので、「ジープ島」を調べてみました。
ウィキペディアでは、次のような紹介が載せられていました。
「第二次世界大戦前の日本の委任統治下時に『婚島』と命名されるまでは、無名の無人島だった。
1997年に吉田宏司が島のオーナー、キミオ・アイセックの協力を得て単身で移住。
島名を『ジープ島』とし、開島した。」
ジープ島公認ホームページでは、
「直径35メートル、111メートルの島を想像できますか?
不思議の島を体感してください!」とあり、
「ジープ島は不思議の島。天空が360度広がり、昼夜を問わず大自然のパノラマを展開する。
水中ではミナミハンドウイルカと遊び、サンゴの林を散歩し、熱帯魚達の出迎えを受ける。
そして、自然の真ん中で解き放たれ、あなた自身が自然に戻る島。」
との紹介がありました。
ふうん。
なんだか、本当に夢の中にいる気分ね。
「ジープ島公式サイト」での紹介。
「グアムから飛行機でわずか1時間半。ポンペイ(ポナペ)が首都のミクロネシア:チュークにあるドルフィンスイムのできる南の島。
映画:青い珊瑚礁そのままのトラック環礁に囲まれ、真っ白いビーチに11本のヤシの木がそびえる、宿泊できる可愛い無人島。
ここは野生のイルカと泳げる、光と水と風が織り成す天然自然のオトギの国、ジープ島(JEEP島)。」
2004年7月13日の毎日新聞に掲載された記事もありました。
そこには、吉田宏司さんが、移住するにいたるいきさつが書かれていました。
“「いつの日か無人島で暮らしてみたい」
吉田宏司、47歳。子どものころからの夢を追って十数年、休暇を見つけては赤道周辺の島々を巡った。サンゴ礁に囲まれ、15本のヤシの木が茂るジープ島と出合ったのは37歳のとき。以来、通い続けて3年。熱意にほだされるように、島を所有するキミオ・アイサック(故人)が言った。「夢を実現させましょうよ」
旅行代理店役員の職と月20万円の都心のマンション暮らしを捨てて、97年にリュックひとつで上陸した。最初の3年はロビンソン・クルーソーのような生活だった。雨水をため、現地の人々が時折届けてくれる食料で飢えをしのいだ。朝日に励まされ、夕日に感謝する日々。テレビも携帯もない生活で、大自然への畏敬(いけい)の念を深めていった。
1年後、ゲスト用にヤシの葉でふいた小屋を建てた。口伝えにうわさを聞いた日本人が次第に訪れるように。仕事や生活に疲れ果てた人々はサンゴの海で心を洗い、引きこもりや自殺未遂の過去を抱える人々は大自然の再生力をおすそ分けしてもらった。
私(記者)が休暇を取って、島を訪ねたのは00年だった。「この島に魅せられた人々の力を借りて、悲しみを抱える日本の子どもを招待したい」。満天の星の下で、吉田は新たな夢を熱っぽく語ったものだ。
あれから4年−−。児童養護施設「遙(はるか)学園」(大阪府島本町)の子どもたちと再訪した。吉田の思いに賛同した仲間たちがカンパで贈った旅だった。
感嘆の声を残して、海に入る子どもたちの背中を見ながら吉田は言う。「心を痛めた人々に『がんばれ』という言葉はいらない。大自然の中に身を置いて、心と体を癒やしてほしい」
島のヤシは23本になった。”
吉田宏司さんの紹介は次のとおり。
“1956年11月8日生まれ。随筆家であり海洋研究家。
ジープ島を運営する代表者でもある。約20年間世界中の海を回り、97年に手付かづの自然が残る無人島、ジープ島を開島。
ユニークなライフスタイルが世間からの注目を集めマスコミにも出演しており、多忙な日々を送っている。
また「世界海洋ボランティア協会」の会長であり「夏島海洋学校」の創始者。
(※夏島は、トラック環礁内のデュプロン島の日本語名。戦時中には連合艦隊の司令部が置かれた。)”
当時47歳だった吉田宏司さんも、60を越えられた、ようですね。
ああ、本当に行ってみたいです。
小さな島なので、地球温暖化で水面が少しずつ上がり、どんどん島が小さくなっているそうな。
…そうか、こんな小さな島だと、地球環境の変化をもろに受けるんだ!とそれも驚きでした。
日常のあれやこれやに疲れたときには、この島のことを思い浮かべるだけで、ちょっと気分が変わるかもしれません。
今朝は、ちょっと「おすそ分け」したくなって、ご紹介しました。
…実は、今日は亡くなった父の誕生日で。
父もこんな楽園にいたらいいなという気がして。
今日一日は、こんな風に父に語りかけようと思います。