この前の週末は、大阪・京橋の平松みどり先生の「みどり会」で、
ゲシュタルト・トレーニングコースのファシリテーターとして百武正嗣さんが来られました。
先月、新潟のスーパーバイズ合宿に申し込んでいたにもかかわらず、体調不良で参加が叶わず。
それで、土曜日は東京のビジネス・セミナーの日だったのですが、それを欠席して、こちらに。
今の私に必要なのは「ゲシュタルトのワークを受けること」のような気がしたのです。
5ヶ月ぶりに会う百武さんは、相変わらず飄々とされていて。
最初のチェックインで、「ワークもSVも受けたい!」という欲張りな私に、
二人目のワーカーが、「(自分が)ファシリをする時、段々と声が小さくなる」ことの悩みを出されていて、
その人のワーカーとして、百武さんから私が指名されました。
「え?私なの? 私は百ちゃんのワークを受けたいのに…」
そんな反応をする私に、「僕が横につくから」と半ば強制的に。
まあ、いいか、とその方のファシリでワークを受けることにしました。
もちろん、その人の必要な時に百武さんが止めるので、ワークは一旦中断するわけですが、
中断することは、自分の内面と向き合うことを阻害されるようで、
初めは内心、「だから、今日は直接百ちゃんのワークを受けたかったのに…!」と不満に思ったわけですけど、
しかし、次第に、「あ、こういう関わりをされると、確かに、ワークがスムーズに流れないよね。」とか、
百武さんがアドバイスしたように直されると、ワークがうまく進んでいくのもわかりました。
あ、百ちゃんは私に、SV体験も併せてしてくれているんだ! と気づきました。
まあ、相変わらず飄々と、なんにもそういった解説はされないわけなんですけど。
…ふふふ…。最初は不満に思えても、まあ大抵は、百ちゃんの言ったとおりにすると、あとでその意味がわかる。
いえいえ、私は「百ちゃん教」の信者になるつもりはないから、自分の感じるままに抵抗もするわけですけれど。
長いワークでした。1時間40分。こんな長いワークは初めてのような気がするけど、でも、よかった。
いろんな大変なことを抱えているけど、私は、自分の仕事をちゃんとすることで自分を支えてきた。
これまでもそうだったし、これからも。そのことが確認できました。
百武さんの、ゲシュタルト療法についての説明の言葉を整理しておきます。
・ゲシュタルト療法は、カウンセリングの1つ手前の「人間って何だろうか」から出発している。人間って生き物としてどういうものかを取り上げている。それが1つの特徴。
・その背景に「哲学」がある。哲学とは、人間はどう生きたらいいのかを追究するもの。「宗教学」とは異なる。
・「人間を生き物としてみる」とは、有機体として見るということ。有機体は誰かに生き方を教わらないと生きていけないものではない。
・有機体はどういう風に生きていくかというシステムを持っている。
・植物は動かない選択を、動物は動く選択をした。しかし、原理から見ると同じ。動物は自分が動くための機能を持ち、体内で必要なこと(水分・栄養・人)が湧いてくると自分で動いて取り入れる。植物は土の下に、水と栄養がある方向に根を張る。土の上に光を求め、光合成する。花や実をつけ、昆虫や鳥に種を運ばせる。
・有機体には「気づく能力」が備わっていて、環境(=外部の世界)とは、「オープンシステム」で動いている。
・オープンシステムとは、不足したら外から取り入れ、いらないものを外に排出する。自分の中だけで完結しない。外との関係で成り立っている。水も空気も栄養も人も。
・細胞が細胞であるためには「細胞膜」という境界線が必要。境界線がないと、生き物は成り立たない。
・オープンシステムであるにも関わらず、何らかの原因でそれを止めてしまう。あるいは、過去に止めてしまった経験を持ち続けてしまう。
・有機体はセルフ・レボリューション(自己調節機能)を持つ。つまり、自分の中で調整することができる。そして、体の中はホメオスタシス(恒常性)を持つ。だから、何かをする必要はなく、すでに持っている。
・「何かが起きている」その意味が分かれば(=気づけば)別の方法を選択することができる。それは、生き物としての機能を取り戻すこと。
・「気づき」とは「何が起きているか」「何を止めているか」「何を欲しているか」がわかること。
・体の症状は「今、ここ」で起きている。「症状」とは、外の世界とのコンタクトを抑え込むこと。エネルギーを自分で止めるから疲れる。
・自分のエネルギーを自分で止めることで何が起きているかを見ていく。子どもの頃はその方法で安全だった。でも今も必要?
・未完了な感情と行動(安全でないために十分に表現できなかった。何も感じないようにしていた。)は、環境と個の中で、「境界線の障害」(=コンタクト・バウンドリー)として起こる。
・未完了な感情や行動は、時間と空間を超えて、それが完了するまで存在し続ける。今、ここで、いろんなサインとして起こる。
・自動的に起きていると思っていることを、スローにして、何を止めることで何が得られるのかに気づくと、選択することができる。
・今、ここで起きているいろんなサインは、自分が意識を向けて気づくことができる。意味はそれぞれの体験の中で起きていることなので、一般化できない。
・その人が感じていることを一緒に探していくのがワーク。
・怒りなら怒りの意味に気づく。抑えることで何を守ってきたのか。
・怒りなどの「質」に触れるかどうかは、ファシリではなく、本人が望んでいるかどうか、で決める。
・ワークは完了させるためではない。発酵(自分の中で何が起きているか)させるため。
・「感情を処理する」? No!!「表現する」。感情は何が起きているかを理解するためのもの。
「現象学」について
○キリスト教とは全く異なる立場。キリスト教は神が答えを知っている。人間の本質を知っている。人間は神の手の中にある。
○哲学は無神論者が多い。自分自身に答えがある、という立場。
○「現象学」は「今、目の前にあるものが、そのものの本質」と捉える。
・身体全体が、その人の信じているものを表現する。私が感じているものは私が感じていること。
・ジャッジしないで、受け入れることが必要。
「実存主義」について
○実存主義は「自由とは何か」「選択とは何か」「責任とは何か」という3つのテーマを持つ。
○「実存は本質に先立つ」。生きていくために、今ここにいる実存(=現実)が先にある。
○気づきがなければ、自分が選択することはできない。
○実存とは、「死という現実がある」「孤独という現実がある」。それをなかったことにしない。それを受け入れたとき、だから自分はどういう生き方をしたいか、という選択がある。自由とは、選択できること。
・自分に何が起きているかということに気づく責任は本人にある。自分は犠牲者であるという立場を取らない。
・多くの心理療法は、精神に対する療法。哲学ではない。
実り多い2日間でした。
画像は、新版のテキスト。