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五蘊(ごうん)から始める〜浅田慈照尼と読む『ティク・ナット・ハンの般若心経』(1)〜

2019/12/26
五蘊(ごうん)から始める〜浅田慈照尼と読む『ティク・ナット・ハンの般若心経』(1)〜
先月、浅田慈照尼宅を訪れたとき、私は1つのことをお願いしました。
それは、『ティク・ナット・ハンの般若心経』(馬籠久美子訳・2018年4月第1版第1刷・野草社)を一緒に読んでいって欲しい、ということです。

ティク・ナット・ハン師の『ブッダの<気づき>の瞑想』という本を、どういういきさつからか、自分で探して持っていました。
そこに、ともこさんの紹介で櫻井詢晃(じゅんこ)さんの「Zoomでサンガ〜仏陀の呼吸の瞑想」に参加するようになって、テキストの『ブッダの<呼吸>の瞑想』を買い求め、定期的に『<呼吸>の瞑想』に触れるようになりました。
その後、ティク・ナット・ハン師の本として『般若心経』があることに気づき、取り寄せました。
この本を手にしたのが、浅田慈照尼宅を訪れるようになってからで、そのふたつが私の中で結びついて、「そうだ! この本を一緒に読んでいくことをお願いできないだろうか?」という思いが湧き起こってきたのです。

一緒に、などということは「おこがましいこと」と認識しています。
しかし…と私は思うのです。
お経は基本「如是我聞」、つまり「是(か)くの如(ごと)く、我は聞き」という、教えを説いて聴かせていただいた者が伝える、という形を取る。
しかも、般若心経は、智慧第一の「舎利弗(しゃりほつ)」という弟子に語りかける形態。
般若心経の中では「舎利子(しゃりし)」として出てくる。「子」は男子に対する尊称だったか、と思います。…私の漢文の知識では。
なぜお釈迦さまが舎利弗に語りかけたか、という問題は、やはり、舎利弗でなければならなかった、気がしています。

おそらくは…舎利弗は、適切な「問い」を発する人ではなかったのか?

そんな風に思います。

話、というものは、「問い」があって深まっていくもの、という認識を、私はしています。
ソクラテスの「問答法」ではないですが、適切な「問い」があって、「教え」は更に開かれる。
受け手が自分の「認識」を正確に確認するための「問い」が、より深い「教え」を導く、と私は認識しています。
だから、「答え」よりも「問い」が大切だと思うのです。

私は、これまでの私の人生をかけて、全身全霊の「問い」を投げかけたいのです。…他ならぬ浅田慈照尼に。
教えを請う、ということは、そういうことではないか、と私は考えています。

ティク・ナット・ハン師の本をテキストとすることに、浅田慈照尼は同意してくださって。
他の人の訳本でなくてよかった、と言われました。
ティク・ナット・ハンさんは、サンスクリット語から直接訳されているから、と。
他の方だと、漢語訳からの訳本となり、直訳ではなくなる。
それは、漢語訳をした人の解釈が混じってしまうことになるから…ということでした。

そういった「事情」も知らずに選んだのですが、やはり、こういうことも「出会い」なのか、という気がしました。

さて。
『ティク・ナット・ハンの般若心経』には、本体に入る前に、3つの「前書き」が付けられています。
ティク・ナット・ハン師自身の前書きは3つめの「雲と洞窟ー新たな般若心経」なので、そこから読んでいくことにしました。
しかし、この「前書き」には、仏教の考え方の「基本語彙」がふんだんに出てきて、まずは、その用語理解から、となりました。
第1回は、その「基礎知識」理解で終わってしまいました。
今回は、とりあえず、「前書き」の前書き部分を書き写して、そのどの部分に私が注目したか、までをまとめたいと思います。



ベトナムの山々には、何千羽もの鳥たちが鳥たちが巣を作る巣を作る洞窟があります。
鳥たちは朝早くから巣を飛び立ち、ひなのえさを探しては探してはまたそこに戻ってきます。
ときどき洞窟の洞窟の入り口に雲がかかって霞んでしまい、巣に戻る道を見つけられなくなることがあります。
太陽の輝く光が雲を散らすときだけ、洞窟の入り口がはっきりと見えて、鳥たちは巣に戻ることができるのです。

私たちの人生でも、行く道をさえぎり、混乱を作り出して、本当のわが家に戻るのを阻(はば)むような出来事があります。
道を見失わせるものは、心の中の妨げや苦しみだけではありません。
最も深遠な教えでさえも、その意味を正しく理解しないと、間違った方向に導いてしまうことがあります。
経典であっても、方便(ほうべん)としての上手な扱い方を知らないと、かえって解放への道をさえぎることになりかねません。
般若心経は深遠で重要な経典です。
私たちを解放と幸福と安らぎの岸へ運ぶ力をもっています。
しかし、その一方で、千五百年以上も大きな誤解を生んできました。
そうなった理由は、般若心経を編纂した祖師の言語表現が適切なものでなかったからではないか、と私は考えています。

言葉は人を惑わせることがあり、現実の本質への深い洞察は、言葉の届かないところにあります。
しかし同時に、いく世代もの導師たちは、その慈悲心から、最善を尽くして言葉を巧みに使い、私たちが解放(解脱げだつ)への道に向かえるようにと導いてきたのです。
導師たちが言葉を使うときは、その言葉が近似値でしかないことをよくわかっていますーー覚醒した理解のありようを、言葉で完璧に表現することはできません。
そして、優れた導師は、どれだけ言葉に注意しても、混乱する者が出るのは避けられないことを知っています。
それでもなお、学ぶ者が苦しみから脱せられるように導くため、全力を尽くして助けねばならないのです。


予習として「前書き」を読んだときに、色を変えた部分に下線を入れていたのですが、そのことについても触れないまま、になってしまいました。
次回は、その辺りから、入っていただこうと思います。

タイトルの「五蘊」とは、「色(しき)・受・想・行(ぎょう)・識」を指す仏教用語。
「色」とは、外界に存在するもの。目に見えなくとも物質として存在するもの。
「受」とは、その外界を受け取ること
「想」とは、受け取ったときに、何か感情が出てきて、自分の想いが動くこと
「行」とは、想いによって何か動くこと。行動・記憶。
「識」とは、ものを蓄積すること。
私とは五蘊である、と。慈照さんから教わりました。

画像は、泊めていただいたお部屋に用意されていた、灯り。
クリスマスだからなのか、ひつじさん、でした。

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