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「空」とは「空ずる」こと〜浅田慈照尼と読む『ティク・ナット・ハンの般若心経』(2)〜

2020/01/31
「空」とは「空ずる」こと〜浅田慈照尼と読む『ティク・ナット・ハンの般若心経』(2)〜
仏教の基礎知識がない私は、言葉のひとつひとつに、立ち止まる。
そんな私に、慈照尼は、とても丁寧な説明をしてくださる。
私の取り柄は「知ったかぶりをしない」ことなので、ありがたく、基本のキから始めていただく。

「空」とは、名詞ではなく動詞。「空ずる」こと。
「空ずること」がわかる方法が「坐禅」。その最中に「体感する」こと。

「入定(にゅうじょう)」とは「坐禅に入る」こと。
六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)のうちの五根(眼・耳・鼻・舌・身)が、内向くので、情報が入らない。
「意」を動かしてはいけない。
観察してはいけない。
ポーンと坐る。
最終的に「内向きの自分」を意識しない。これが「空」。

そこに坐っていることも、そこに居ることも、ない。
自分の存在がない。
これが「空をつかむ」「空性(くうしょう)をつかむ」こと。

…そうすると、どうやって「出定(しゅつじょう)(=坐禅から出る)」する?
いたずらっぽく、慈照尼が言われる。
「空をつかむ」ことができて、自分の存在がない、のなら、自分が出定することも、意識できない、だろうから。

坐禅する前には「出定を意識して坐り始める」のだそうな。

「修道階位(道程)」は、15あって。
「修道階位」とは、智慧によって、煩悩(正しい智慧の発動を妨げるもの)を断除する道(=仏道)。
そのうち、①から⑩までは、「欲界」に留まっている状態。
「欲界」とは、感覚的なもの、物質的なものが全てある世界。
⑪初禅、⑫二禅、⑬三禅、⑭四禅は、「色界」に達している。
「色界」は、物質的なものがなくなり、ものの有る無しは気にならない。痛みはあるけれど、感情が動かない、状態。

(⑮四無色定は、「無色界」に達している状態。「無色界」は、肉身は物質の束縛を離れ、心の働き(受・想・行・識)だけから成る世界、と「修業階位」の一覧表にはありますが、聞くのを忘れました。)

で、この⑮に達すると、「解脱(げだつ)」。
でもまあ、まだ「成仏(じょうぶつ)」には達していない。
解脱して、成仏するまでのところにいるのが、「菩薩(ぼさつ)」・「阿羅漢」。
成仏すると「如来(にょらい)」となる。

如来と菩薩の違いは、住所がある如来と、住所のない菩薩、の違いだと慈照尼は言われました。
数多くの菩薩の、代表的なものは「文殊(もんじゅ)菩薩」、「普賢(ふげん)菩薩」、「観音(かんのん)菩薩」、「弥勒(みろく)菩薩」。
「文殊」は「諸戯(しょげ)を断つ」。戯とは、たわむれ、遊び。もろもろの不要物を廃し、直に智慧に達する、の意か。
「普賢」は、見るに賢い。ぱっと見てわかる、分かり方。
「観音」は観ること自在、で、「観」は旧字の篇(へん)の部分が「雚」で、下の部分が「みずどり」。
親鳥がおしなべて、あまねく、見る見方、をするように、坐禅の中に、おしなべて見る、見方。
「弥勒菩薩」は、次に如来になる人。

その弥勒菩薩は「兜率天」にいる、という話から、今度は「『欲界』の天」の話になって。

「六(欲)天」。
三界(欲界・色界・無色界)のうちの欲界の六天。
すなわち、地上に近いところから、「四王天」、「忉利(とうり)天」、「夜摩(やま)天」、「兜率(とそつ)天」、「化楽(けらく)天」、「他化(たけ)自在天」。
「兜率天」は、88キロ上空にあるところ、だそうで。(「忉利天」はお釈迦さまのお母さんが居るところ、だそう。)
私はふと宮沢賢治の詩「永訣の朝」に出てくる「兜率の天」を思い出していました。

「般若心経」は、「7宗派の教えの全てが入る」という言われ方がするけれど、7宗派より「般若心経」の方が古いので、
「『般若心経』から各宗派が教えを打ち立てた」と考える方が妥当だ、とも、おっしゃいました。

ここでまた、「7宗派」? と止まってしまって。

7宗派=法相(ほっそう)宗、三論(さんろん)宗、成実(じょうじつ)宗、律宗、華厳(けごん)宗、天台宗、真言宗

法相宗〜華厳宗までが、「南都六宗」。「三論宗」「成実宗」は、今はない。
法相宗は薬師寺、興福寺。律宗は唐招提寺。華厳宗は東大寺。

「天台宗」から鎌倉新仏教が生まれ。「浄土宗」「浄土真宗」「日蓮宗」「時宗」「禅宗(曹洞宗・臨済宗)」。


「私だ」「私だ」と言っているものは、実は「無我」、我がないハズ。…「空」だから。
だったら、「私」で押していこう。全部、「私」に置き換えをしなさい、と言われているよう、だから。
「法を説く」とは「文(=文章・文字)」と「義(=内容)」。

「義」は自分でしか理解できない。
「世界」とは自分。「苦を入れない方法」は、他者と区別しないこと。

阿羅漢向(あらかん・こう)とは、「無色界」にいて、一切の煩悩を断じつつある者。
阿羅漢果(あらかん・か)とは「無色界」を抜け、一切の煩悩を断じ終わった者。
阿羅漢になる時に、最後に手放すものは、「慢(まん)」と「疑」。
「慢」とは「慢心」。何かと何かを比べること。慢心には「強慢」と「非慢(=私なんか…と卑下すること)」がある。
しかし「慢心」を手放すと、「死」。
ならば、「大慢」「大欲」にする。「大」とは、今までの概念とは異なることにする、こと。
「大欲」。私がこれが欲しいんだったら、人のためにもこれをしよう、と。

「欲から離れられない」存在であるならば、その欲を自分のためだけ、のものにしない…ということか。

生きるための哲学。そんな気がしました。

画像は、翌朝のアンジーの散歩時に、大楽庵(慈照尼宅)からすぐの高台から見た日の出。
刻々と空の色が変化していくのが素敵で、散歩の途中で慈照尼を呼び出して、一緒に眺めました。

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