2月の末に慈照尼のところの「大楽庵」を訪れたのち、私の不調は始まって。
まるで、コロナ禍の始まりと符合するかのように。
私の不調は1ヶ月ほどで収まったのだけど、世の中は、どんどんコロナが蔓延し。
そのまま、自宅でどこへも行かない日々、となったのでした。
先月久しぶりに「大楽庵」を訪れたものの、…密かにティク・ナット・ハン師の『般若心経』のテキストも持って行ってたのに、
なんとなく、久しぶりの「逢瀬」に二人のおしゃべりは止まらず、お勉強どころではなくなったのでした。
その1ヶ月後の先日も、まだ、エンジンが掛からない、感じではあったのですが、
さすがにちょっと、と思い、ウオーミングアップに、これまでのところを、テキストを通し読みすることにしました。
(読み方が不明だったところもあり、音読してよかった、と思いました。)
ピーター・レヴィットさんの「はじめに」を読む。
「般若心経はブッダの教えの真髄である。」(p 12 l1)
「アメリカの仏教の真の顔」(p12 l 13)
「本書を読まれる方が明確に智慧の真髄に合流できるよう、こんな提案をしたい」(p 14 l14)
「親しむということは、本書に収められた教えの心臓の部分である」(p 15 l 10)
ブロック体にした語が、同じ語の訳を違えているのか、そうでないのか。ちょっと知りたいね、というご指摘がありました。
こういう精密さ、こういう、言葉に対する感覚が好きだなあ、と思いました。
引き続いて。「雲と洞窟ー新たな般若心経」というティク・ナット・ハン師自身の「前書き」を読む。
以前に読んで、私が鉛筆で線を引いた箇所。
「もっとも深遠な教えでさえも、その意味を正しく理解しないと、間違った方向に導いてしまうことがあります。」(p 18 l8〜9)
「言葉は人を惑わせることがあり、現実の本質への深い洞察は、言葉の届かないところにあります。」(p19 l1〜2)
「導師たちが言葉を使うときは、その言葉が近似値でしかないことをよくわかっています。」(p 19 l3〜4)
言葉は「事(こと)の端(は)」。物事の一端でしかない、ことを言葉を扱う人々は知っていた。
あるいは。言葉は大木の葉っぱのようなもので。1枚1枚の葉でもって表現しようとするけれど、その1枚、では表現しきれないもの、で。
昔。私は卒業論文に「古今和歌集」の比喩表現として、枕詞、序詞を追いかけた。
その時に、記号論も学んだ。ソシュールの「シニファン(能記)」と「シニフィエ(所記)」。
ソシュールは、記号は「能記(シニファン)」と「所記(シニフィエ)」の二面性を持つ、とした。
能記(シニファン)—何らかの表象、形
所記(シニフィエ)—意味、内容、概念
例:「(犬)Inu」という音声が能記で、それによってイメージする動物が所記(シニフィエ)。
能記と所記は、言語によって「恣意的」に結び付く、とされた。
「犬」は、日本語では「Inu」と発音するが、英語では「dog」と書き、 [dog]と発音する。
なぜ、その発音でその意味を持つのか、については、明確な規則性がないところから、「恣意的」とされたのだ。
…そんなことにも思いを馳せながら、テキストに戻る。
「覚醒した理解のありようを、言葉で完璧に表現することはできません。」(p 19 l4〜5)
「それでもなお、学ぶ者が苦しみから脱せられるように導くため、全力を尽くして助けねばならないのです。」(p 19 l6〜9)
「ここは『慈悲心』ですね」と慈照尼のコメントが入る。
引き続き「前書き」の中に、「沙弥と鼻」という寓話が提示される。
沙弥と鼻
禅師が沙弥に問いかけました。
「般若心経とはどんなものか、お前の理解したところを話してみなさい」
沙弥が合掌して答えました。「はい、五蘊(ごうん)は空(くう)であるということです。目、耳、鼻、舌、体、心(六根ろっこん)はありません。形、音、。匂い、味、物体、心の対象(六境ろっきょう)もありません。現象の十八の領域(十八界)は存在しません。十二のつながった相互依存の生起(しょうき)(十二縁起えんぎ)も存在せず。洞察(智慧)も悟りもありません」
「お前はそれを信じるのかね?」
「はい、まったくその通りだと思っております」
「こちらへ来なさい」、と禅師は手招きしました。沙弥が近よると、禅師は出しぬけに親指と人差し指で沙弥の鼻をつまんでねじり上げました。
あまりの痛さに沙弥は、「先生、痛いじゃないですか!」と叫びました。禅師はちょっと驚いた顔をして答えました。「先ほどお前は、鼻など存在しないと言ったな。だが、鼻がないなら何が痛いのじゃ?」(p 20)
※十八界…「六根」(感覚器官=眼・耳・鼻・舌・身・意)+「六境」(感覚器官の対象=色・声・香・味・触・法)+「六識」(この両者の出逢いによる認識=眼識・耳識・舌識・身識・意識
※十二縁起…十二因縁ともいう。苦の原因を順に分析したもの。無明(むみょう)→行→識→名色(みょうしき)→六処→触→受→愛→取→有(う)→生(しょう)→老死
空を「存在しない」と理解した沙弥は、鼻をつままれて痛みを訴える。けれど、「存在しないなら、何が痛むというのか?」と問われ、答えられない。
存在しない、のではなく、意識しない限り、存在しない、というべきか。
だから、「あるのでもなく無いのでもない」。
そこに有ったとしても、目に入ってない、認識してない、ということは日常的に多々ある。
するとそれは自分にとって「存在していない」。無いと同じ、ということ。
存在しない、という誤った理解の仕方を防ぐために、ティク・ナット・ハンは次のように言う。
従来の般若心経の経文のうち、最初の一行から、「生じることもなく滅することもない、汚れたのでもなく清らかなのでもない、増えることもなく減ることもない」(不生不滅 不垢不浄 不増不減)までは完璧な表現です。しかしながら、この経典を編纂した祖師が、「有るのもなく無いのでもない」(不有不無)の言葉を加えなかったことが悔やまれます。
この一行によってこそ、私たちは「有」と「無」の概念を超越することができ、「目もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もない…」というような概念にとらわれないように防ぐことができるからです。(p 24 l7〜14)
今回は、「認識する主体があって、初めてものは存在する」ことの意味を確認した回となりました。
画像は、翌朝、4時に起きてコラムを書いたあと、アンジーの早朝散歩に出掛けた時に撮った、立葵。
5時45分ごろで、まだ朝日が差さない、薄暗さの中に白くぼうっと咲いていました。