昨日夜は、月1回の倉橋みどり先生の俳句講座。
このところ、奈良にゆかりのある俳人のご紹介に預かっている。
今回は橋本多佳子。
この人の作品が、高校の教科書教材に載ることはあまりなかった。
なぜかというと、非常に「女」を意識させる句が目立つから。
雪はげし抱かれて息のつまりしこと
とか、
七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ
など。
今回のご講義は、そんな多佳子の別の一面を見させていただけたものでした。
「奈良を詠んだ句、奈良で詠んだ句」として紹介された中で、私の印象に残ったのは、次の五句。
修二会 つまづきて修二会(しゅにえ)の闇を手につかむ
唐招提寺 一燈(いっとう)なく唐招提寺月明(げつめい)になり
興福寺 蝶が来る阿修羅合掌の他の掌(て)に
薪能 火と風と暮れを誘ふ薪能(たきぎのう)
修二会 修二会走る走る女人をおきざりに
「つまづきて修二会の闇を手につかむ」
お水取り。3月1日から2週間に渡って行われる、春の行事。
お松明(たいまつ)は明々と。
けれど、一方でお松明に照らされる周辺以外は、すっぽりと闇に包まれている。
つまづいた際、何かにつかまろうとして、何もつかめなくて、手にしたのは、お松明に照らされていない闇という空間だった…
とは、なんと見事な! と思う。
人が、お松明の明るさを見ている時に、多佳子は対局の闇を見ている。この対比!
「一燈なく唐招提寺月明になり」
つい先日、中秋の観月会(かんげつえ)に、唐招提寺に出掛けてきました。
私が奈良を離れる前には、置き灯籠には、萩の一枝(ひとえ)が添えられていたのですけれど、
コロナだから、ということでなく、奈良に帰ってすぐ28年ぶりかに行った観月会でも、もうそんな風情はなくて。
それでも、置き灯籠の揺らぐ灯と、金堂の扉が開放されての光景はなかなかのもので。
そういった観月会が済んだ後の、燈(あかり)を消して、ただただ月明かりだけになった唐招提寺。
またそれも風情があるなあ…と思ったことでした。
「蝶が来る阿修羅合掌の他の掌に」
阿修羅像! ブームになる何年も前から、…そう、私は高校生の時から、阿修羅像が好きでした。
少年のような風情で、眉をひそめた憂い顔は、とっても凛々しくて。
何度も、学校帰りに会いに行っていました。
その阿修羅像には、3対の腕があって。
合掌している1対以外は手のひらを上にあげたり、腕を横に広げたり。
それらに「蝶が来る」という!
多佳子の時代は、阿修羅像はガラスのケースに覆われていたよね? って話になって。
そうなんだ! それは知らなかった、けれど。
そうすると、実写、じゃなくて、想像の世界で蝶を飛ばしたんだ! って話になって。
多佳子は、正岡子規の言う「写実」ではなく、もっと斬新な、クリエイティブな映像を見ていたんだ!
という話になり、彼女が映画監督になったらどんな映像を撮っただろうか…という話にまで発展した。
「火と風と暮れを誘ふ薪能」
薪能は、確か…興福寺の境内で、5月末に行われる行事で。
梅雨に入る前。季節は夏に向かう時の、まだ爽やかな夜。
奈良を離れる前、20代の私は何回か行ったことがあって。
うん。確かに。舞台横に据えられた薪の、明々と燃え盛る中、能が舞われ、爽やかな風が吹き、
そして、夕闇が暮れなずんでいく。
鼓(つづみ)の音と笙(しょう)の笛の音(ね)と。
…一瞬、その時の音まで聞こえてくる、気がした。
「修二会走る走る女人をおきざりに」
お水取りでは、お松明を掲げた男衆が、だーっと、正面左の階段を駆け上がる。
あの勢いは男性のもので。…多分、他の祭りの、だんじりなどに繋がるものかなあ…なんて思う。
うん。ちょっと女たちは、取り残された気分。
それを上手く表現したな、と思う。
総じて、多佳子は、全体を捉えつつ、1点に焦点化する。
何をクローズアップするか、というその視点が面白い。
そんなことに気づかせていただいた、倉橋みどり先生の講座、でした。
画像は、昨日の朝、思い立って出掛けた「とよのコスモスの里」。
午前中で、行って帰って、と思っていたら、意外に遠くて、帰りはお昼を過ぎました。
もっと、光が差した、コスモスのアップ写真も撮ったのですが、なんだか、天を仰ぐコスモスが良いような気がして、これにしました。