2020年11月17日の「折々のことば」。
人の人生には、それぞれのテーマがあるのではないか。
中村文則の言葉。
鷲田清一の解説。
長編小説『逃亡者』から。
作中、一人のヴェトナム人女性が、祖国の悲惨な歴史を語りつつ、国花である蓮(はす)の佇(たたず)まいを「泥から出(い)でて、泥に染まらず」と表し、その凛とした姿が自分のテーマだという。
人生の理想にかぎらない。
そこで負った傷や苦労も、消し去りたい「不幸」ではなく、みずからが取り組むべき「テーマ」としてとらえると、それと向きあう力も湧いてくる。
「人生のテーマ」。
うーん、そうね。そんなことを考えたこと、はある。
広島での二人目の友人が、「今回の人生は、もうこれで、いいよ」と言って、夫の病を引き受ける覚悟をした時。
(…今、「病の夫」か、と思い、いや、「夫の病」だ、と自問自答した。多分…彼女にとって夫は、病を持つ、だけの存在ではない、と思うので。)
「あ、今回って。次回があるのかどうか、わかんないけど。」
自分の発した言葉に、彼女自身が驚いたように付け足した。
輪廻転生を信じる私は、ごく素直にその言葉を受け止めた。
輪廻転生を信じる、といっても、確たるものがあるわけではなくて。
20代でNHKの番組でチベット仏教の「死者の書」を取り上げているのを見て。
『死者の書』を探して、読んだ。
それは、今まさに死にゆこうとする人を、チベットの僧はどんな風に導いていくのか、を記したものだった。
光の方向に歩いていきなさい、と僧は死にゆく人の耳元でささやく。
けれど死にゆく人は、光が眩しすぎて、恐れをなして、その方向に歩いていけない。
最初の1週間。僧は懸命に光に向かって歩ませようとするけれど。
そして、光の方向に歩んでいけないことが確定すると、今度は、せめて人間に生まれ変わる方向に歩ませようとする。
そういった営みが全部で7回。
だから、7×7=49。「四十九日」の意味は、その営みの時間。それで、「死」が確定する。
なんというか。光の方向に進んでいけば、自分も世界と調和して、もう「生まれない」で済む、というのに。
恐れをなして、目を逸らしてしまって、その方向に進んでいけない、ということがわかるような気がして。
それで、やむなく次も生まれてくる。…それが転生。
自分のたましいの状態によって、…つまり、その「恐れ」の度合いによって、次に何に生まれるか、が決まってしまう、という意味で「輪廻」。
それが20代の私にすんなり「入って」きて。
この世で生きるのは、光の方向に歩んでいくための「修行」である、ように思えていて。
世界と、自他ともに分けずとも、一体化できるなら。
淋しいという感情に襲われることもなく、居られるのではないか。
20代の私はそう思った。…思い出す限り、いつもいつも淋しい私、で居たので。
私の人生のテーマ。
淋しさ、とどう向き合うか、ということ。
親との関係。子との関係。を、どう育むか、ということ。
パートナーシップには恵まれない、中で、どう生きるか、ということ。
ある程度。親との関係はなんとかなってきたけれど。
今度は子との関係。
「ひとりしかおらんけど、3人分ぐらい、手がかかるなあ」と母が言った、と40年来の友人に言ったら、
「手がかかる、ではなくて、手をかける、のよ。」と言われた。
親は子に手を掛けるもの、と彼女は言う。手を掛けなければ、その関係は切れていく、と。
そうね。3年待つ、つもりではいるけれど。
その3年の前に、一度、会いに行ってこよう。
顔だけ見て、元気でいることだけ確かめて。
そして、私は私の場所に帰ってこよう。
アンジーを連れて、行ってこよう。…そう、思った。
画像は、朝のアンジーとの散歩で見かけた草花。
セレンディピティ。という言葉が浮かんで。
「微細な中に真実は宿る」だったっけ? 「微細な中に手がかりがある」だったっけ?
いや、違う。「ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ること」でした。