2020年12月11日の「折々のことば」。築地静香の言葉。
助けてほしい時には“軽率に”「助けてほしい」と言うのです。
鷲田清一の解説。
現代人は「自己責任」という言葉に縛られ、一人で頑張ろうとばかりして、人に助けを求めるコツを知らない。
「一人じゃ無理」と感じたらすぐに声を上げること。
「軽率な救護要請」にかならず誰かが「軽率」に応えてくれると、京都の映画館・出待座内のカフェの店長は言う。
助け合いはついでかはずみでやるほうが長続きする。
求人誌「おっちゃんとおばちゃん」23号から。
うん。なるほどね、と思う。
「救護要請」。迷惑だろうかと思い、避けがちだけど。
いや、そうじゃない。
「たいしたことじゃない」とか言って、するりと抜けて去ってしまわれるのが怖いんだ。
たいしたこと、かどうかは、相手が決めることではなくて。
私が決めること。
なのに。
「たいしたことないよ」。
口にせずともそういう気持ちがあるから、そのままの状態で私を置き去りにできるんだ。
それがわかった時に急激に気持ちが冷めた、記憶がある。
SOSを察知できない人とはやっていけない。
そうね。そう。
私は滅多なことではSOS発信しないけど。
たまにはそういうことも、ある。
緊急電話、とか、緊急メッセンジャー、とか。
私のSOSを察知して動いてくれる優しい友人たち。
ありがとう。本当に。救われています。
私も、「救護要請」は下手だけど。
緊急電話すること自体が「助けて」の合図。になっているんだなあ、と今気づいた。
私も、だから、クライエントさんから「緊急時メール」が届いた時には、メールではなくて、すぐさま電話をすることもある。
ほんの短い電話でも。電話の方がいい時もある。
声が聞きたい、時もあるので。
「軽率に」応えられる人でありたい、と思う。
敏感に察知できるように、自分の状態を保って置きたい。そう思う。
画像は、11月の朝のアンジーとの散歩で撮ったもの。
何の変哲もないものの、光が織りなす繊細な陰影が面白くて、ついシャッターを切った一枚。
セレンディピティ。微細なものに宿る幸運。