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私のフォーカシング・レッスン(4)〜「スペースに生きている」というあり方〜池見陽先生のエイジアン・フォーカシング・メソッヅ〈4〉

2022/04/07
私のフォーカシング・レッスン(4)〜「スペースに生きている」というあり方〜池見陽先生のエイジアン・フォーカシング・メソッヅ〈4〉
池見陽先生の「Asian Focusing Methods」セミナーの続きです。

・「クリアリング・ア・スペース」なんですが、「クリアリング・ア・スペース」をやっていて、いろんなことに気づく。実例をひとつ一緒に見ながら、それを僕がどんなふうに考えたかを紹介したい。これはこのクライエントにとっても転機だったと思っているんですが、僕にとっても転機だったかもしれない。ワークショップでやった事例の逐語記録。(『傾聴・心理臨床学 アップデートとフォーカシング』に収録。p.123〜)ー事例の前半省略ー

事例の紹介を通しての、このセミナーのポイント
・(事例紹介)…「では、このデッカイ石をどこに置いたらいいでしょうか? デカイのでなかなか移動ができないですが。」「ちょっと今は動かせない。」
・これは面白いですね。これは彼女には手に負えない大きさ、ということ。だから動かすことができない。そこで僕はこう言います。
・(事例紹介続き)…「このデッカイ石はどこにあったらいいでしょう?」
・これはある種のスペースプレゼンスにもなっているのだが、僕の中で思っていたのは、たとえばデッカイ石だったらこれは溶岩の、火山のところにあったらいい、とか。本来どこにあるべきものなのか、という意味。
・(事例紹介続き)彼女は意味がわからなかったのでしょう。「うーん、自分の中?」と言います。「いやあ、こういうデッカイ石だったら、火山の噴火口の近くとか?」「ああ、そうですね。どこか綺麗な景色のあるところに。オーストラリアの石みたいに。…エアーズ・ロックみたいな。」「エアーズ・ロックみたいな、あんなにデカイのですね。では、並べて置いておきましょうか?」
・ここは非常に面白いやりとり。ここは僕の方からの提案。「エアーズ・ロックと並べて置く」。僕たちの間主観的な世界には、エアーズ・ロックは2つになっている。「並べて」ある。こういうのを僕は「セラピスト介在型クリアリング・ア・スペース」と言うんですね。私、セラピストが介在して可能になった。
・最初のビルの屋上は彼女が置いた。こっちは私が提案して、彼女が置いた。だからセラピストが介在している。(事例中略)
・(事例紹介続き)「なんか自分の中で、常に家族のことを脇の方で思っていなきゃいけない、常に携帯しなきゃいけない、なんかそんな発想があるの?」「そうですね」「じゃあ、この発想をどこかに置きましょうか?」「そうですね」「じゃあ、それに気づいておきましょう。常に家族のことを思っていなきゃいけないと自分で思ってるんだ、と。この発想、どこに置きましょうか?」彼女は返事がない。はい、と言うが、返事がない。しばらく経ちます。ここで質問を変えます。「どこに行きたがっていますか?」。
・今日はここがポイントになります。自分が置くんじゃなくて、その「気がかり」はどこに行きたがっていますか? という。
・(事例紹介続き)そうすると、彼女は「空」と言います。「空! どんな空?」「青くて高い」「青い高い空。はい」。ここで何が起こったのかわからないんですが、彼女はここですすり泣き出します。ここで44秒沈黙。さらに22秒。だからここで1分以上泣き出してしまいました。何が起こったのか僕にもわかりません。「今、何が起きましたか?」「空に投げた習慣に涙が出てきて、初めての感覚だったのでわからないんです、何が起こったのか」。これは何だを流しながら、ちょっと言葉に詰まりながら話しています。「どんな感じを伴っていますか? 涙は」「多分、こういう場では、誰にも話したことがないので、ほっとした感じ」…(事例中略)
(顔の表情が変わったので)「何が浮かんできていますか?」と聞いてみました。「祖母が浮かんできました」「何か言っていますか、おばあちゃんは」「何も言わないです、じっと見て」。
・これは空から見ていたらしいです。暖かい感じがあって、祖母の顔が浮かんで、「今、どんな感じ?」「肩がすっきりしてる」。ここでセッションが終わるんですね。7分ぐらい。
・感想メールで「先生に面接いただいて以来、肩にあった荷物が取れた感じです。あれ以来、私は不思議に守られている感覚を強く持ち、少しずつ自分を解放している感じです。是非、研究資料に使ってください。自分自身と向き合う、大変大きな人生の転機となったと思います」ということが書いてあった。

・これ、非常に面白いなあと思った。「どこに行きたがっていますか」と聞いたら、空が現れた。だから、これは「空に置こうとした」訳ではない。空が現れた。さっきの『アップデート(する仏教)』の考え方みたいなもので、今度は「スペースが現れた」んですね。ここを今日僕は大事にしたい。
・だから、「どこかに置いておこう」じゃなくて、「どこに行きたがっていますか?」。そういう問い。この中で面白いことが起こる。空に投げた瞬間に、涙が出てきた、というところ。彼女はこの問題を全部空に投げた。それは自力。自力で投げた。でも普通は落ちてくる。空まで届かない。それを、「空が吸い上げた」んだと思うんです。だから、この「投げる」というところが、ある種の自力と他力の接点、みたいな。そんな感じがする。
・そしてその他力の「空」には、おばあちゃんもいる。で、それが守ってくれている。これは話したことがないから、と何度も言うが、実際記録を見てわかるように、話してないんです、彼女は。でも体験的には何かのワークをした感じがしているんだと思うんです。

※間主観性…現象学派の哲学者たちは、自己意識(われ思う)の直証的確実性から出発するとき、自我と等しい権利をもつ主観性である他我との共同、つまり間主観性、およびそれをよりどころとする対象世界の客観的・公共的な把握はいかにして基礎づけられるかという問題に腐心した。フッサールの他我論は「類比による統覚」とよばれるもので、他の身体=物体が私の身体(これは単に物体ではない)と「対(つい)」を組み、そのことによって他の身体=物体に他我の身体という「意味の転移」が成就(じょうじゅ)すると説く。ただし、「類比による統覚」は単なる類推作用ではなく、「間接現前」とよばれる一種の現前であるとされる。なお、問題場面は異なるが、ヘーゲルの『精神現象学』にすでに、「われわれである自我、自我であるわれわれ」という共同性の観点が提出されているのは、特筆大書に値する。『山崎庸佑著『現象学の展開』(1974・新曜社)』

「僕たちの間主観的な世界」と、池見先生は言われた。共同作業的にフォーカシングを進めていく、そのありようが彷彿とされる表現。
…そうね。クライエントさんが池見先生の前で、自分の「気がかり」が「エアーズ・ロック」みたいなと言われた途端、「エアーズ・ロック」はお二人の前に、二つ並んで存在した。
それは勿論クライエントさんの主観から始まったことではあるけれど、気づいたら、言葉と共に巨大な石が並んでいるのを二人して「見た」のではあるまいか。
そういった、どちらか最初が、などということが問題とならないような認識が立ち上がるのを、こんなふうに表現されたように私には思われました。

それから。「セラピスト介在型クリアリング・ア・スペース」。
そうね。セラピー、カウンセリングはひとりでは進まない。介在者がいて進んでいくのは、まるでクライエントの状況なり状態なり、気持ちなり、が理解できない人とは進まない。
けれど。クライエントの感情、感覚を肯うだけの人もダメだと思う。自分以外の「他者」と出会わないと、視座の転換は生まれない。
そういうことで言えば、「クリアリング・ア・スペース」に限らず、「付かず離れず」の絶妙な立ち位置にいてくれるカウンセラー、が「目指すべきありよう」なのかもしれない。

スペース・プレゼンシング
・そこで今回やろうとしている「スペース・プレゼンシング」って何かというと、「気がかり」をどこかに置いておく、じゃなくて、「それはどこに行きたがっているかな」と。そしてその「気がかり」をそこに、行きたいところに行かせてあげる。それがこの「スペース・プレゼンシング」っていう、私のやり方。
・(「スペース・プレゼンシング デモンストレーション セッション」の提示)ここはマインドフルネスに座る、ここも「クリアリング・ア・スペース」と違う。「今どんな感じがあるか見てください」ではなく、「雑念がやってくる」のを待っています。よっぽど瞑想の達人でない限り、雑念はすぐやってくる。雑念が来なければ、すごい瞑想をしていると思ってもらっていい訳ですね。あ、でも「今、凄い瞑想をしている!」という雑念が来た、ということになりますが。
・では、その雑念、行きたいところはどこかなあ?と想像して、そこに行かせてあげる。そしてまたマインドフルに座っている。次の雑念が来たら、同じようにする。
これはある種の「スペースに生きている」ということ。西洋的アプローチとも違う。西洋的アプローチは、割と問題を解決するとか、分析するとか、そういうようなアプローチになっていく。これはそうじゃなくて、「気がかり」がどっかに行けばいい、と。そうしたら、スペースに居られる。すごく心が落ち着くスペースにずっといることができる。それでいたら、人生の問題なんかない(んじゃない)? という考え方。
・いやそれでも、私の人生にはこういう課題があって、という人はそれだけ執着が強い、ということ。執着がなければ何の悩みもない、という、そういう発想。

なんというか…自分の「気がかり」を自分の意志でどこかに置くことで取り敢えずスペースを作ることと、自分の「気がかり」だけど、むしろ自分から手放して、自分の意志や意図などというものから遠ざけること。
自分の問題だから、と律儀に抱え込まずに、むしろ放り投げることで、何が生じるか、を見てみること。

考えてみれば、自分にとって自分自身という存在がいちばん厄介なのだから。…たぶん、誰にとっても。
どうにもならないように思えるものは、放り投げてみたら、案外、良い結果に繋がる、というのは、わかるような気もする。
「下手な考え、休むに似たり」的な。
…なんとかしよう、なんとか良い結果を生み出そうとするのは、欲が働いて、本来の流れを見誤ってしまうのかもしれない。
どのみち、そこまで「悩む」というのは、いい加減に考えられない、自分の責任を果たそうとする真面目な性分から、だろうから。
それが、「私の人生にはこういう課題があって、という人はそれだけ執着が強い」ということにつながるのだろう。)

真摯である、真面目である、というのは美徳だけれど、ときに、そのありようは行き詰まりを生じさせる。
手放していいものまで執着してしまう、場合があるから。

それにしても。
自力と他力、主観と客観。
そういった二項対立的な概念は、対立させたままで終わらせるのではなく。
どこで融合を図るのか、が問題になっているように思う。

最初から他力で臨むのではなく。自分の精一杯の自力の果てに、何かが手を差し伸べてくれる、のか…。

現象学の「間主観性」。
ティク・ナット・ハンの『般若心経』に出てきた、「自他」の問題。


どれもこれもが繋がってきて面白い。
何か…「大事なこと」というのは、こんなふうにどれも関連していくような気がする。

画像は今朝、アンジーとの朝の散歩で撮った、ご近所の桜並木の桜。
ちょうど朝日が差してきて、いい具合に「桜花に差す光」が撮れた。
…写真を見ていて、光は影を伴って、初めて「光」と認識できるのか、とさっき気づきました。

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