折々のことば。2025年1月1日の谷川俊太郎の言葉。
平和/それは花ではなく/花を育てる土
平和/それは歌ではなく/生きた唇
鷲田清一の解説。
平和は側として掲げるものではなく、着なれた下着やいつも吸っている空気のように、「あたりまえなもの」としてあるはずだと、詩人はいう。
「退屈」で「寒気ない」のがその証しであるほどに。
それは、待っていればいずれ訪れるものでもなくて、人びとの身を養うもの。
だからなくてはならぬもの。
詩集『うつむく青年』(1971年)から。
おお! 元旦に谷川修太郎の詩を持ってくるか! と思った。
それも、初期の尖った作品が多い『うつむく青年』から。
ここは。勝負をかけた、ね。鷲田清一さん。
…いったい、何の勝負、だろう?
ウクライナ侵攻もガザへのイスラエル報復も。
何も解決できないままに2025年の春を迎えた。
アメリカの今度の大統領トランプの「ロシアとの停戦を実現させる」との言葉に、一縷の望みは託している、というものの。
おそらくは、ウクライナが領土の一部を失うことによってしか、実現しないであろうとの見方に、そうだろうなと頷く私がいる。
…おそらくはその時の力の強いものの「論理」を、周囲が表面的にでも「そうだ」と頷くことによってしか合意に至らない。
「正義」とは、かくも「暫定的」な立ち位置にあるもの、でしか、ない。
ゼレンスキーは、「ロシア軍侵攻」となる前に、アメリカが背後についてくれたから、と浮かれて、ウクライナ南部の州に駐在中のロシア軍を刺激した、その責めを負わねばならない。
あれが確かに、プーチンに「ロシア侵攻」を促す、大いなるきっかけになった。
「また、なんとハデに! プーチン刺激して!!」
と思ったのを昨日のことのように覚えている。
…ちょっと熱に浮かされたように「勇ましい」ゼレンスキーの演説も。
平和は。そんな「正義」では実現できない、んだ。
時には卑屈に見えるやりとりの結果、かろうじて保たれるものであるはずだ。
日本も、沖縄にミサイル発射台を続々と準備してどうする?
下手にロシアを刺激するだけではないのか?
しかも。沖縄のミサイル基地準備は、国民にはロクに報道されない。
どうする? 日本。 どうする? 日本人。
私が、日本人である、ということの意味は。
どこにあるのか?
何をしたら、その意味が見出せるのか?
わからない。
わからないまま、時間だけが過ぎていく。
だから、私、池見陽さんのフォーカシングのワークショップが沖縄・那覇で開かれるのを理由に、
沖縄に行ってこようと思う。今年2月。
私はまだ一度も沖縄に足を踏み入れたことがない。
とりあえず。沖縄の空気を吸い込んで、焼けた首里城の再建中を観て。
それからどこに行ったらいいのか、考えようと思う。
その時に、私に必要なことは、沖縄の空気が教えてくれると思う。
…きっと、そうね。
花を咲かせるには、土が要る。
歌を響かせるには、その歌を口ずさむ唇が要る。
唇があっても…心を感じないと、歌えないかもしれない。
心の花を咲かせるには、それを養う心の土壌が要る。
心はどうやって養うの?
それは、美しいもの、穏やかなもの、生きる喜びを感じてこそ。
ああ、そうしよう。
諍いや自然災害で、荒んだ人の心に。
どうやったら花は咲くか。
私に何ができるか。
それを考えながら、この一年を過ごそう。
そう思えた、元旦の「折々のことば」でした。
画像は2025年1月6日の日の出。
元旦には母のマンションに泊まっていて、初日の出は撮れなかった。
まあ、でも。その時にどんな出会いをするか、自分でもわからなくて。
もしかすると「元旦の写真」に拘る私では撮れなかった写真、かもしれないもの。
今、思ったけど。立木を間に置くから、日の出太陽の全体像が見えるのじゃない?
直に撮ったら、太陽が二重になっちゃって、「だるまさん」にしか見えなかったものだから。
平和もそうかもしれない。直に扱うと、ちょっと形が歪むのかも。
何か、間にものを挟んで扱えば、意外と原型が残るもの、なのかも。