折々のことば。2025年1月13日の清水幾太郎の言葉。
言葉は……内部からの抑制がないと、強烈な言葉の空騒ぎ、つまり、精神生活のインフレが起(おこ)ってしまいます。 清水幾太郎
鷲田清一の解説。
言葉は貨幣に似ており、その強度を上げだすと歯止めがきかなくなって、表現する人自身の精神を「荒廃」させると、社会学者は説く。
「強烈な表現」なら人は適当に割り引いて、聞くものだし、逆に「弱い表現」は読む方が自然に補ってくれる。
控えめがじつは得策なのだと。
SNSの時代にこそ心得ておくべきこと。
『日本語の技術』から。
人の感情を煽り立てるような言葉は、むしろ、読む人には警戒感を引き起こし、一方で、そういった言葉を発する人は、その言葉の影響を受けて、自身の言葉はますます「歯止めが効かない」状態に陥りやすい。
だから、「表現する人自身の精神を『荒廃』させる」と説くんだ。
まあ、言うなれば。「自分の言葉に自分が酔う」状態、だね。
それは、ますます聴衆から「乖離」する。
そうね。もう尻軽に「そうだ!そうだ!」なんて。人の言葉に乗っかる、時代ではないよね。
「発せられる言葉」を自分の内(なか)に取り込んでみて、そして「斟酌」して、合わなかったら、ぺっと吐き出す、時代になっているかもしれない。
いや、そもそも。プロパガンダ的勇ましいことに対しては、自分の内(なか)に取り込むかどうか、もっと早い時点で「却下」しているかもしれない。
それほど、人はもう「用心深く」なっている気がするんだけど。
それは「溢れるぐらいの様々な情報」の中で、サバイバルをかける私たちには必須のことだ。
いちいち、心震わせていたら、いつの間に取り込まれた?状態が来るかもしれない。それは恐ろしい。
ある一定程度のキョリを保ちつつ、大丈夫かどうか、信じるに値するか否か、を吟味する。
そうそう。守るべきは「大事な私の心」だもの、ね。
だから、プロパガンダ的強い言葉、ではなく、ちょっと引いたような、ちょっと逡巡したような、ためらいのある言葉に、
その言葉の使い方、逡巡やためらいはどこから来ているのかを吟味できる言葉の使われ方、に、
人は一定程度の「信頼」を置くのかもしれない。
そこには。自分の主張、よりも受け取る相手への「思いやり」が感じられるから。
やはり。言葉を「伝達」的に用いているか、「対話」の一部として用いているか、の違いが、そこに自ずと現れる、気がする。
私たちは、「対話」を求めているんだ、と思う。
パウロ・フレイレの『伝達か対話か』。古い本だけど、もう一度読んでみようと思う。
画像は、2025年の私の玄関の「しめ飾り」。
「お正月さま」をお迎えする。ものではあるけれど。
「災い」を同時に弾いてくれてる気がする。
…そうね。入り口のところで、「これを受け入れるか、否か」の判断は。いつだって必要な気がする。(今日は1300字)