折々のことば。2024年6月22日の大澤真幸の言葉。
先生の存在が、<問い>だからである。 大澤真幸
鷲田清一の解説。
何かを知ろうとすれば問いを立てなくてはならない。
そして良く問うには先生が必要だと、社会学者は言う。
正解を先に手にしている人ではなく、より深い未知に身を開いてゆける人として。
人生の意味は何かある目的の達成にあるのではなく、日々の歩みの在りように懸かっている。
実際、教わった知識はまたたく間に忘れても、先生の背中は忘れない。
『私の先生』から。
「正解を先に手にしている人ではなく、より深い未知に身を開いてゆける人」という言葉に。
ああ、そうね、と思った。
「正解を先に手にしている人」は。答え合わせのように、たったひとつの「正解」に向けて、しか反応しない。
それはあまりに貧しいこと。
目の前には、たくさんの「未知なる可能性」が並んでいる、というのに。
その豊かさに目を向けないで、たったひとつの「正解」にのみ突き進む、なんて。
そういう人は。たったひとつの「正解」に向けての道筋まで指定する、ことが多い。
…自分で気づいてない、ことが多いけど。
もし、たったひとつの「正解」があったとしても、そこに至る道筋がいろいろある、ことに気づいていたなら。
その「道中」も楽しめる、のにね。
とにかく。自分が思う、たったひとつの「正解」に向けて、その道筋まで指定して、というのは。
窮屈だ。
まるで、A'、A''を量産していく、ように。自分と同じ反応をする「型」を量産したがっている、ことに。気づいてる?
…気づいてない、よねえ。
そこには「他者」は存在しない。
「他者」が存在しないから。「自己」とも出会えない。
自分と異なる「他者」の存在を認めることによってしか、「自己」を認識できない。
そうすると。自分が無意識にやってしまっていること、にも気づけない。
「良く問うには先生が必要」ね。
…そうね。そうかもしれない。
確かに。「より深い未知に身を開いてゆける」、数少ない「先生」がいたからこそ。
そして「数少ない」と分かっているからこそ、その出会いを貴重なものとして、受け取ってきた私がいる。
同時に。「人と出会うって、どういうことだろう?」を問い続けた私がいる。
「出会う」ためには。
実を言うと。話しながら、私自身が「私、そんなことを考えてたんだ!」とびっくりした。
そんな不思議な時間。
教員を辞めて、もう9年になる。
カウンセリングルームでは「まこさん」と呼んでもらって、「先生」とは呼ばれていない。
31年の教員生活の中で、私は自分のことを「先生」と言ったことは、ない。
いつもずっと「私は、」で話をしてきた。
「先生」と呼ぶのは生徒であって。私ではない。
だけど。
教え子が私のことを「先生」と呼ぶのは、許容している。
最初、「まこさん」って呼んでもらおうか、とも思ったけど。
自分の場合を振り返って考えてみて。
年を取れば取るほど、「先生」と呼びたい人はいなくなってきて。
もちろん、社会的立場上「先生」と呼ぶ場合はあるけれど、「本心」からではない。
本当に、心から「先生」と呼びたい人は、あまりに少ない。
そういったことを考えると。
私が「先生」を自分から降りる、というのは。可哀想な気もして。
同時に、「先生」と呼び続けてくれるなら、それに相応しい自分であり続けようと、そう覚悟して、そのままにしている。
まあ。私も。教え子たちと、再び「出会いたい」から、ね。
昔話をするより、今、何してる? 何考えてる? を話したいから、ね。
それが。「人生の意味は何かある目的の達成にあるのではなく、日々の歩みの在りように懸かっている。」なのだろう。
私はそんなふうに理解している。 (今日は1,600字)
画像は、広島からの帰りの新幹線の案内。
どの新幹線に乗る、ということは、たまたま、かもしれないけど。
そのたまたま、が何かのきっかけで「忘れられない」ものとなる。
それと同じように、数ある中で、たったひとつの「出会い」となるためには。
そこに「生きた私」「生きた相手」が存在する必要がある、などと考えたことでありました。