今日は、ふと目に留まった、まど・みちおの詩「もうひとつの目」を紹介したいと思います。
最近、私はナード・ジャパンのアロマの講座で洗顔石けんを作ったりもしたのですが、日頃はポンプ式のムース状の石けんを使っていたりして、なんだか、固形の石けんがとても懐かしいような気持ちになりました。
学校ではまだまだ固形石けんが健在だと思うのですが、今回は、その石けんを見つめる「目」が主役です。
「もうひとつの目」 まど・みちお
はたらきとおして
こんなに小さくなった せっけんが
あたしの目には どうしても
せっけんの
おばあさんのようには 見えない
せっけんの
あかちゃんのように 見えて
かわいい
ばかな目だなあ
と 思うけれど
そう 思うことが できるのは
もうひとつの ずばらしい目が
見はっていて くれるからだ
いつも
あたしたち にんげんの
心のまん中に いて (『まど・みちお全詩集』1972年の作)
時間の経過に従って言えば、使っているうち、石けんは小さくなっていって、今の大きさになった、のですね。
それはそう。使ったんだから。石けんからいうと、「はたらきとおして」いたんだから。
だから、年取った「おばあさん」石けん。(まあ、「おじいさん石けん」でもいいんだろうけど。)
なのに、「あたしの目には どうしても/せっけんの/おばあさんのようには 見えない」
「せっけんの/あかちゃんのように 見えて/かわいい」のだという。
そういった、通常の「理屈」、通常の「論理」から離れた感覚を「ばかな目だなあ」とも思う、冷静さを持ち合わせてはいる。
それでも、そんな冷静な判断より「もうひとつの すばらしい目」の方の「見はっていて/くれる」ことの方を大事にしたいと思っているのですね。「あたし」は。
単に大きさが小さくなった、と言うだけでなく、…だんだんまあるくなって、余計な角が取れているってことだろうか?
赤ん坊の、どこからどこまで腕で、どこからが手首で、などがあまりはっきりしないぽにょぽにょした、肉付き。
それと同じで、石けんの塊も、あまりはっきりとした形を取らなくなっているところの類似性?
それとも…何かよく分からないにせよ、ここにあるよ! がしっかりと主張されている感じ?
「あたしたち にんげんの/心のまん中に いて」見はってくれている目ってなんだろう?
ものをものとしてだけ見るのではなく、その本質を見ようとしているのではないか。
その存在が果たしてきた役割を思うとき、「お疲れさま」とか「ありがとね」とか…そういった感情につながるのかもしれません。
私たちも…その存在の形は、よく分からない。特に自分から見て。
だからこそ、「あたしたち にんげんの/心のまん中に いて」見はってくれている「もうひとつのすばらしい目」を時折、意識してもいいのかもしれない。
「おばあさん」が「あかちゃん」のように見えるような転換が、…自分のどうしようもなさがそうではないとわかることが、そこにあるかもしれない、と思ったりするのです。