新型コロナウイルスによる自粛で、しばらく人との接触がなかった4月5月6月。
あっという間に7月になっていて。
今日はもう七夕。
七夕ーーー五節句のうちのひとつ。
五節句の「節」は季節の変わり目という意味があり、「節句」は季節の節目に五穀豊穣、無病息災、子孫繁栄などを祈り、神様へお供えをしたり、邪気を祓ったりする行事のこと。(「日本文化研究ブログ」より)
元旦(1月1日)→人日(じんじつ 1月7日):別名「七草の節句」。七草粥を食べて、一年の豊作と、無病息災を願う。
上巳(じょうし 3月3日):別名「桃の節句」。女の子の誕生と成長を祝う。
端午(たんご 5月5日):別名「菖蒲(しょうぶ)の節句」。男の子の誕生と成長を祝う。
七夕(たなばた 7月7日):別名「笹の節句」。短冊に願いを込めて笹に飾ると、願いが叶うといわれている。
重陽(ちょうよう 9月9日):別名「菊の節句」。一般的には馴染みはない節句だが、宮中や寺院では菊を鑑賞する行事が行われている。
七夕をするにも、なかなか笹が手に入らなかったり、飾った後の笹をどう片付けてよいやらがわからなかったり。
で、いつの間にか、保育園や学校や、街中の商店街や、そんなところでしか見かけなくなってしまった。
私も、最後に短冊に願いを書いたのは、いつだったか…。
子どもがまだ保育園に通っていた頃、勤めていた高校の図書室の司書の方が、いろんな「行事」に積極的な方で。
季節の移ろいに合わせて、図書室に何か、心和むものを設置されていた。
七夕の笹もあった。短冊に願いを書くように用意されていた。
生徒たちのいろんな「願い」をひとつひとつ眺めながら、その時3年生の担任だったので「3年7組のみんなの進路が拓けますように 担任」と書いた。
後日、図書室に行く用事があって、増えた短冊をまたひとつひとつ見ていると…私の書いた短冊の裏に「先生のお子さんがすくすくと育ちますように」と書いてあった。
学校行事が日曜の時には保育園も休みで、見てもらう人がいなくて学校に連れてきていたものだから、保育園児は、高校生に人気者だった。
クラスの生徒の、誰が書いたものかわからなかったけれど、なんだかほっこりして、七夕飾りを片付けるときに、その短冊を司書の先生に言って、もらった気がする。
願いは…そんなにたやすく叶うものではないのかもしれないけれど、ずっと願い続けていれば「祈り」となって、暖かなエネルギーが循環し始める、気がする。
まだ、コロナの終息、は見えなくて、なかなか、会いたい人に会えない。
人ともマスクをしながら、でしか話せない状況は、ホント息苦しい。
会いたい、近くに寄りたい、触れたい欲求は、人とともに在りたい、ごく当たり前の「願い」であるはずなのだけど、何かそれが「特別なこと」に様変わりしてしまった。
もう、究極は「この人からならうつってもいいや」と思えるかどうか、なんて、そんな「選別」が自分の心にあることさえ、気づいてしまった。
コロナ後は、新たに気づいたことを、もう「なかったこと」にはできない、気がする。
お仕事のカウンセリングも、「対面」でなくzoomでも受付します、という案内をホームページに出したけれど、やはり「対面で」と希望される。
「コロナがまだ終息していないのに申し訳ないですが、対面でお願いします」という、ことわけを書いてこられた方が今日来られる。
いえいえ、逆にありがたいなあ、という気が私はする。
人の心に触れるのに、やはり全身で「共にいる場」が必要な気がするから、私は会って話を聴きたい。話がしたい。
コロナ自粛は、自分の志向性がどこにあるのか、に気づかせてくれた。
アナログ的で、時代に乗っていけないものかもしれないけれど、そんな自分のありようを見つめていこうと思う。
画像は、2017年6月27日の紫陽花。出かける習慣をなくして、今年は紫陽花も見に行っていないことに気づきました。